特別展「開拓使文書に拾う北海道史の一場面」

特別展「開拓使文書に拾う北海道史の一場面」

会期:2014年10月1日~10月30日【終了しました】
会場:北海道立文書館展示室(赤れんが庁舎1階)
入場無料

 北海道立文書館が所蔵する開拓使文書7,832点が国の重要文化財に指定されたことを記念して開催する、1か月限定の特別展です。
 入場無料ですので、お気軽にお立ち寄りください。
 なお、この間、常設展はお休みしますのでご了承ください。

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ごあいさつ

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開拓使とは

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開拓使文書について

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近代「北海道」のはじまり

 箱館戦争終結後の1869(明治2)年7月、明治政府は箱館府に替えて開拓使を設置しましたが、財政事情から政府のみでの蝦夷地経営は難しく、諸藩等へ分領して支配させました。その翌月、蝦夷地は「北海道」と改称され、本州以南と同様に国・郡が設定されました。

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それまで「蝦夷地(えぞち)」と呼んでいたのを「北海道」と名付け国郡名をつけることを太政官が宣言した文書の写しです。

本府・札幌の街づくり

 開拓使は道央に本府を建設することとし、その場所を札幌に定めました。原野を開き土地の区割りを行い、広い火除地(現大通)の北に役所と官舎を、南に町屋を配しました。
 北海道の行政と開拓施策を担う本庁舎は1873(明治6)年に完成しました。

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開拓使札幌本庁舎の上棟式の様子です。

黒田清隆とケプロン

 開拓政策を巡っては、樺太の取り扱いをどうするか議論が分かれていましたが、1870(明治3)年に黒田清隆が開拓次官となると、樺太放棄を決断し、また、北海道開拓の方針を定めました。
 黒田は開拓のモデルをアメリカに求め、開拓使顧問にアメリカ人・ケプロンを招聘しました。

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北海道開拓の外国人顧問として「カプロン」(ケプロン)という人に決めた、と知らせる書簡の写しです。

豊富な食材を産業に

 開拓使は鮭・鱒や鹿などの豊富な天然資源に注目、保存・移送に耐えるよう加工して付加価値をつけ、国内外へ移輸出しようと考えました。
 鹿は最近、農作物等への食害が問題視され、食材としての利用が注目されていますが、開拓使でもすでに缶詰、燻製などの製造を試みていました。

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勇払郡植苗村美々に作られた、開拓使直営の鹿缶詰製造・脂精製工場の地図です。

サッポロといえば

 サッポロと書くとビールとつなげたくなりますが、現在のサッポロビールのルーツは、開拓使が設立した札幌麦酒醸造所です。1876(明治9)年に開業しましたが、醸造が軌道にのるまでには、それに携わる人たちの苦労がありました。

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開拓使直営のビール醸造で初めての発酵が始まったことを知らせる電文です。

官営富岡製糸場の技術を札幌へ

 国の殖産興業施策のひとつとして、1872(明治5)年に富岡製糸場が設立されました。翌年、開拓使は製糸技術を習得させるため、伝習工女を富岡へ派遣することにしました。1876年に開拓使が札幌製糸場を開業する際には、この工女たちが呼び戻され、富岡製糸場の技術を伝えました。

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開拓使の官費で富岡製糸場に派遣された伝習工女たちの写真です。

鰊漁業の近代化

 開拓使は、目下の急務は土地開墾であると考えていましたが、実際には漁業が主力産業であり、その中心は鰊(にしん)と鮭・鱒(ます)でした。
 開拓使では、漁業の対象となる魚種や漁法を増やそうと試みる一方、主力である鰊の加工方法の改良をはかりました。

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絞粕を作るためにニシンを蒸すための火力として、石炭を用いる試験の設備です。

初期移住の人びと

 開拓使は1870(明治3)年、官員を直接派遣し、手厚い扶助条件を示して移民を募集しました。しかし、経費に見合った実績があがらず、官員派遣による直接募集は2ヶ年で終わりました。
 一方、移住においてまず実績をあげたのは、禄を離れた士族たちでした。

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当別に入植した伊達家主従が、国元に残してきた家族を呼び寄せることを願い出た書類に添付された名簿です。

西洋の農器具

 開拓使では、北海道の開拓には西洋式の農業が有効であると考え、農機具を始めとする農業技術や、新しい作物を導入しました。
 「北海道的」と感じられる農村景観のルーツがここにあります。

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開拓使が熱心に導入をはかった西洋式農具の絵です。

都市の商い、新時代の味

貿易港を抱える函館や、首府となった札幌には、さまざまな職業を営む人々があらわれました。
 新時代の味、文明開化の象徴ともいえる牛肉店も、函館に数軒開店しました。そのひとり小沼庄助は、牛肉や牛乳の販売を手がけ、さらに牛スープの無料提供も始めます。

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「牛店」を営む者が、病院にスープを差し入れたいと願い出た書類です。

缶詰で西洋料理

 道産缶詰の質の高さをアピールしようと、開拓使は缶詰を使った西洋料理の試食会を開くことにしました。
 鹿や牛、海産品缶詰を使った料理は、その半年以上前から周到に研究されたもので、試食会には政財界の著名人が招待されました。

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開拓使直営工場で作られたカキ缶詰のラベル案です。

Boys, be Ambitious だけじゃない 文書に残るクラークの言葉

 札幌農学校の初代教頭としてあまりにも有名なクラーク博士。札幌に滞在したのは8ヶ月という短い期間でしたが、学生たちに大きな影響を与えました。
 開拓使文書の中に、クラークの残した言葉や再来日への思いを見てみましょう。

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札幌農学校初代教頭として有名なクラークの演説を和訳した書類です。

小学校の進級試験

 明治になると学制が制定され、身分にかかわらず誰もが学校に通える時代になりました。
 それでも、当時の小学校はとても厳しく、半年に一度の進級試験に通らなければ落第、反対に成績がよければご褒美がもらえ、飛び級も可能という能力主義でした。

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小学校の試験結果一覧です。落第もあるなど、今よりかなり厳しかったようです。

通信革命~電信線、津軽海峡を越える

 文字を信号に変換して送受信する電信は、画期的な通信手段として、北海道にも導入が図られました。
 1874(明治7年)10月には、津軽海峡の海底線の敷設工事が完了し、函館~青森間の通信が実現しました。

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津軽海峡海底に敷設された電信ケーブルの修理工事の際、航行する船に「工事領域」を知らせるために用いられたブイの絵図です。

SL北の大地を走る

 当初石炭輸送を目的として建設が計画された幌内鉄道は、1880(明治13)年1月に工事が始まり、10月には手宮~札幌間で蒸気機関車の試運転が行われました。
 鉄道は旅客や荷物輸送にも使用されるなどフル稼働し、開拓の基盤づくりに貢献しました。

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明治天皇が手宮から札幌まで鉄道に乗って移動した際の、経路を示した図です。

鮭漁禁止とアイヌの人びとへの波紋

 1869(明治2)年に開拓使が設置され開拓が進むとアイヌの人びとの生活は大きく変わりました。近代的な土地制度により生活圏が狭められ、毒矢と仕掛け弓による狩猟や川上での鮭漁も禁止されるなど、民族固有の文化を失いかねない状況でした。

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川で「ウライ網」を使って鮭を捕ることを禁止した文書です。

世界に売り込めラッコの毛皮

 ラッコは択捉島など南千島周辺に生息し、欧米ではその毛皮が高級品として珍重されたため、外国船による密猟が絶えませんでした。
 開拓使では取締りを行うとともに、毛皮を北海道有数の産物とすべく自ら狩猟に乗り出し、イギリスでの販売を実施しました。

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ラッコの毛皮を精製した図です。右は開拓使が行ったもので、傷があり、等級が下がります。左は理想的な例として示されたものです。

今も残る赤い ★

 この赤い五光星は「北辰」(北極星)をかたどって作られた開拓使のシンボルマークです。当時「開拓使印」「開拓使章号」などと呼ばれ、札幌本庁舎のドーム上に白地に赤の星を描いた旗が掲げられたほか、開拓使の建物や製品のラベルなどに用いられました。
 また、ここ北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)は開拓使時代の建物ではありませんが、この赤い星を見ることができます。外に出たら探してみてください。

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開拓使の船に掲げる旗の案として描かれた絵図。星の赤と地の青が鮮やかです。

西南戦争に散った屯田兵たち

 維新後最大の士族反乱、西南戦争。対ロシア防衛を主眼に創設された屯田兵ですが、最初に出征を命ぜられたのは、この国内戦でした。
 戦死、戦病死、また身体に深手を負って帰還した兵士もいて、入植したばかりの屯田兵とその家族に大きな痛手となりました。

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屯田兵の服装と旗の絵図です。

屯田兵の帰還とコレラ流行

 1877(明治10)年、西南戦争中の長崎にコレラが侵入し、九州各地へ、さらに従軍兵士の帰還によって全国各地へと広がりました。
 屯田兵の帰還後、はじめてコレラの流行をみた北海道では、この年127人が罹患し、そのうち死者は93人に達しました。

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西南戦争に出兵した屯田兵のうち、病死した者の名簿です。その多くがコレラによるものだったことが示されています。

ジオラマ製作の舞台裏

 展示室中央に鎮座する「草創期の札幌」のジオラマ。これは決していいかげんに作られたものではなく、きちんとした検証によって再現されたものです。
 ここでは、その一端をご紹介します。

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ある土地について、いつ入手していつ家屋を建てたか、地租はいくらか、などが書かれた書類です。

文書を守るI 開拓使がつくった贅沢な書庫

 開拓使文書は、どのように保存されて今日まで残ったのでしょうか。
 開拓使は、多額の費用をかけて軟石を切り出し、最初の本格的な石造書庫を完成させます。書庫の建設と保守管理に、文書を長く保存していこうとする強い意思をみることができます。

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開拓使が建てた石造書庫の設計図面です。

文書を守るII 「第一文庫」の文書管理

 開拓使の廃止からおよそ20年後、北海道庁は本庁構内に石蔵「第一文庫」を新築し、各地で引き継がれてきた幕末以来の文書を収蔵します。
 「第一文庫」への集約と目録による管理が、開拓使文書をはじめとする大量の文書群を今に残す契機となりました。

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北海道庁が建てた「第一文庫」という書庫の目録の「例言」です。文書をきちんと管理する目的や方法などが書かれています。

展示資料目録

展示資料目録(pdfファイル)

展示資料の利用

 なお、本特別展に展示する資料については、会期中、閲覧ができなくなります。ご了承ください。

閲覧できなくなる資料一覧

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