てん菜栽培の歴史

 日本で最初にてん菜が栽培されたのは、明治3年(1870年)に、内務省勧農局が西洋作物種子導入政策により、海外から取り寄せた亜麻、ビール用二条大麦、てん菜の種子を東京府開墾局で栽培を試みたのが始まりで、その後、東北や北海道で試験的に栽培されることとなりました。

 北海道では、明治4年に北海道開拓使の札幌官園で栽培試作されたのが始まりで、明治10年に砂糖を試製しましたが失敗に終わっています。

 明治9年には、東京四谷にあった内藤新宿試験場で岩手県産のてん菜からショ糖の分離結晶化に成功しました。

 明治11年(1878年)に北海道開拓使が札幌農学校にてん菜の試作を依頼し、当時の生産量は20トンと記録されています。

 同じ明治11年には、内務省勧農局長の松方正義がフランスのパリ万国博でてん菜糖業の隆盛を目の当たりにしたことから、フランス人技術者を招いて帰国し、新宿勧業試験場で栽培試作するとともに、北海道開拓推進のため製糖機械をフランスから購入し、勧農局直営のてん菜糖工場を北海道胆振国有珠郡紋鼈村(今の伊達市)に建設し、明治13年に完成しました。

 当時の全道の作付面積は121ヘクタール、平均的な収量は10アール当たり2.1トン、当時作付けされた品種は「クラインワンツレーベン」種と「ヴィルモーラン」種で、直播による栽培方法(てん菜種子を直接、畑へまく方式)であり、この工場での処理量は1日当たり120トン、産糖量は450キログラムでした。

 ところが、この官営工場の経営は収支を賄うまでに至らず、明治19年には北海道庁に移管され、次いで土地の有志者伊達邦成氏ほか10名の民間人に移し、北海道庁保護のもと紋鼈製糖会社を設立しましたが、てん菜の豊凶に左右され、輸送不便にも悩まされながら、明治29年にはその民営事業も解散してしまいました。

 一方、明治23年には札幌(現在の札幌市東区苗穂、後にビール工場に転用される)にも製糖工場が建設され、ドイツの製糖機械を購入してドイツ人技術者も招聘しましたが、原料不足、経営力の不備、技術の未熟さなどから、これも明治34年(1901年)に解散することとなりました。

 その後、てん菜糖業はしばらくの間中断していましたが、北海道農事試験場では栽培試験を継続しており、大正8年(1919年)には十勝支場で10アール当たりの収量が2.4トンの実績をあげ、北海道に適した作物であることを実証しています。

 第1次世界大戦の勃発等によりてん菜の主産地であるヨーロッパが戦乱に陥って世界的に砂糖が窮乏したため、改めて製糖産業が着目され、大正9年から10年(1920~21年)にかけて、十勝国の大正村河西(現在の帯広市川西地区)と人舞村(現在の清水町)にてん菜製糖工場が設立され、ここで再びてん菜の栽培が始められた。

 それまでの栽培方式は直播栽培が主流でしたが、昭和36年には画期的な安定多収技術である紙筒移植栽培法(ポットとよばれる紙筒に土を入れたあと、種子をまいてからビニールハウス内で育苗し、紙筒のまま畑へ植え付ける方法)が開発され、昭和43年にはその普及率が50%を突破し、それまでの生産量を飛躍的に伸ばすこととなって欧米の平均収量をも抜き、今ではその普及率が91%にも広がり、てん菜の安定生産、ひいては畑作農家の経営安定に大きく寄与することとなりました。

 北海道におけるてん菜の栽培は、初めて栽培された明治から現在に至るまで、幾多の苦難を乗り越え、冷害に強く北海道に適した寒冷地作物として普及奨励され、重厚な助成政策等を受けながら作付面積を順調に拡大し、平成20年には、全道の作付面積は66,000ヘクタール、ヘクタール当たり収量も64.4トンになり、我が国の重要な甘味資源作物として、また、北海道畑作の基幹作物として重要な地位を占めるまでとなりました。

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