北の生活文化(アイヌ民族の信仰 )

 

 

北の生活文化(アイヌ民族の信仰 )


 

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 アイヌの人々の暮らしは、狩猟、漁労、野生植物の採集など、北海道の豊かな自然に順応し、有効に利用したものであった。これに対し、開拓移民は未開の原野を農地に変え、郷里の文化を継承するとともに、北の厳しい自然に対応した新しい生活文化をつくり上げてきた。
 
アイヌ民族の信仰
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14. 復活した儀式の様子 15. クマを送る儀式
 自然豊かな北海道で、それに適した文化を成立させ、伝承してきたのがアイヌ民族である。

 その中でアイヌの人々は、あらゆるものに“魂”が宿っていると考え、植物や動物、さらに火や水、生活用具などそれらがすべてカムイ(神)としている。人間の力が及ばない自然現象や飢饉、悪となる病気もカムイであり、この世界は人間とカムイがお互いに関わりあい、影響しあって成立しているものと信じてきた。カムイは喜怒哀楽の感情を持ち、カムイの世界では人間と同じような姿で、同じように暮らしていると考えられている。

 カムイたちが人間の世界へ何らかの役割を担うとき、または遊びに行きたいと思ったときは、その姿を動植物の姿や道具、自然現象などに変えて現れると考えていた。人間の世界での役目を終えたカムイは元の世界へ帰る。その際、アイヌは自分たちの生活に必要なカムイたちが再び来ることを願い、カムイが喜ぶとされるイナウ(木幣。祭具の一つ)(もくへい)や酒、団子、干したサケなどの食べ物と一緒に感謝の祈り言葉をささげた。
 
アイヌ民族の儀式
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16. 鶴の舞 17. イオマンテリムセ
 アイヌの人々はカムイへの祈りを、いろいろな目的のもとに行った。例えば、人間が動物などを捕らえて肉や毛皮を手に入れるためには、その命を奪わなければならないが、それは肉体から魂を解き放つことと考えられていた。人間はその肉体を受け取り、魂をカムイの世界へ送り返すのである。

 クマの霊送り(イオマンテ)がその一つで、初春に子グマ連れの親グマを獲ったときは、その子グマを生け捕りにして、村で2年ほど飼い育ててからカムイの世界へ送る儀式を行った。

 ほかにも伝染病が流行したときやその兆しがあるときは、臭いの強い植物を家の戸口、窓、庭先などに置き、伝染病のカムイがよその土地へ行くよう祈ったり、先祖の暮らす死後の世界へ供物を届けてもらえるよう、実にさまざまな場面で祈りを行った。なお、祈りはすべて火の神にささげることから始まる。

 神々への祈りが終わった後には、歌や踊りが行われた。その歌や踊りは、国の重要無形民俗文化財に指定され、男性によって悪い神を追い払う「剣の舞」や「弓の舞」、女性が優雅に舞う「鶴の舞」や「水鳥の舞」、そして「イオマンテリムセ」など、各地で今も多く伝承されている。
 
移住者と開墾
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18. 開拓地の農耕・明治39年(名寄市) 19. 移住仮小屋建設の状況
 明治20年代に入り、本州の農民生活がますます困窮すると、注目されたのが北海道開拓である。彼らの多くは、故郷の洪水や地震などの災害や冷害、凶作などで余裕がないまま北海道へ移住しており、北海道に関する情報といえば、道庁役人や開墾会社の説明、さらに道庁発行の各種移住案内書など、移民勧誘を目的とした一方的なものばかりだった。中には、北海道の寒さは人が住めないような厳しいものではなく健康に良い面もあると紹介して、アメリカ・マサチューセッツ州を例に挙げるものもあった。こうして、ほとんど手ぶらの状態で入植した開拓者を待っていたのは、荒涼とした自然と想像以上の厳しい冬の気候であった。

 開墾作業は家を建てることから始まった。それは着手小屋と呼ばれる掘立形式の粗末なもので、丸太を土に埋めて柱とし、それに枝などの細木で屋根組みを作り、屋根および壁はクマザサ、カヤ、木の皮などを用いた。そのためいくら薪(まき)を焚(た)いても寒く、煙や灰で目を悪くする人が多かった。一抱えもあるような大木の密生する樹林地を開き、下草を払い、農地とする一連の開墾作業の中で、伐木作業も未経験な彼らは大木の下敷きになったり、クマザサなど下草を焼き払うときに、火が飛び火して山火事を起こしたり、小屋を焼くこともしばしばあったという。
 
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