幕末~明治前期 公文書挿画コレクション

近世幕末期から明治前期にかけての貴重な歴史的公文書に収められた挿画資料を以下の20項目に分類しました。
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1 港湾の整備

北海道にとって人や物資の移送手段である海運は生命線であり、明治になると本格的な港湾整備が開始されました。函館・福山(松前)・小樽・岩内・森・室蘭・根室等の岬や港湾に対し、波止場・桟橋・竿灯などが設置されました。

室蘭港の桟橋

明治5(1872)年に新室蘭港に設置された木製の桟橋は、たびたび補修や改築がなされた。図は、明治11年に建築申請された桟橋の仕様図。
[明治11(1878)] 原寸38×52cm 簿書3702(14)
 室蘭港の桟橋 画像(PDFファイル)

函館港の気候案内標識

函館の仲町船改所構内に設置された、気候変動の報知を目的とした標識の図。荒天の予報を受けたときは、赤色の玉を掲揚し、周辺を航行中の船舶へ知らせた
[明治13(1880)] 原寸75×82cm 簿書4869(7)
 函館港の気候案内標識 画像(PDFファイル)

江差港鴎島の灯台

竿灯とは灯台のこと。幕末につくられた江差鴎島の竿灯を更新してほしいと、明治16年に江差町民からの要望書が出されたときの建設概略図。しかし鴎島竿灯の更新は先延ばしされ、実現をみたのは明治22年であった。
[明治16(1883)] 原寸28×40cm 簿書8361(27)
 江差港鴎島の灯台 画像(PDFファイル)

2 堤防をつくる

道央を流れる石狩川の周辺には、近世期からアイヌの人々や和人が住んでいました。しかし、流域における農業開発の本格的開始は明治以降であり、河川氾濫による被害を防ぐため、堤防設置など工事がたびたび進められました。

石狩川の水刎(みずはね)枠

水刎枠は、水の勢いを和らげ流れを整えるため、川の中に設置した工作物。図は、明治10年に石狩川に修理・新設した際の設置箇所と枠の仕様図で、このとき5ケ所に新設された。
[明治10(1877)] 原寸38×27cmほか 簿書5863(31)
 石狩川の水刎(みずはね)枠 その1 画像(PDFファイル)
 石狩川の水刎(みずはね)枠 その2 画像(PDFファイル)
 石狩川の水刎(みずはね)枠 その3 画像(PDFファイル)

豊平川と堤防

明治12年の豊平川堤防工事の位置を示した図。豊平川周辺に拓けた真古間内(真駒内)、山鼻村、白石村、雁来村にかけての地域は、毎年のように河川氾濫の危険にさらされ、工事が繰り返し行われた。
[明治12(1879)] 原寸39×153cm 簿書6463(3)
 豊平川と堤防 画像(PDFファイル)

3 鉄道を敷く

北海道開拓を進めるにあたって、鉄道敷設は緊急の課題でした。石炭輸送を主な目的として幌内(いまの三笠市)と手宮(いまの小樽市)とを結ぶ幌内鉄道は、明治13(1880)年に一部開通し、客車を連結し人々も運びました。

明治15年の鉄道路線図

明治15年当時の、敷設路線・敷設工事中の路線・敷設予定の路線を示したもので、道路の書き込みもある。新規の敷設は、お雇い外国人クロフォードの踏査に基づいて設定された。
明治15(1882) 原寸103×110cm 簿書7221(5)
 明治15年の鉄道路線図 画像(PDFファイル)

旅客列車の時刻表と運賃表

明治17年当時の幌内鉄道の時刻表と運賃表。表からは、札幌~手宮間が1日に2往復で所要時間は2時間30分、運賃は上等席で80銭だったこととわかる。運賃を現在の値段に換算すると4~5千円となり、鉄道は庶民にとって高嶺の花の乗り物だった。
明治17(1884) 原寸15×15cm 簿書8623 (6)
 旅客列車の時刻表と運賃表 画像(PDFファイル)

4 学校と病院

北海道では、明治8(1875)以降、学制に基づいて函館や札幌で小学校の設立が始まり、また開拓のための人材育成を目的とした札幌農学校の設置が進められました。
また、開拓を担う移住民の医療は重要な課題で、開拓使は当初各地方に官立の病院を設置して医療制度の充実を図りました。

札幌農学校校舎の建築図面

札幌農学校は、明治9(1876)にわが国最初の高等農業専門専門の高等教育機関として開校した。この図から、農学校の構内に建てられた演武場(いまの時計台)をはじめとする各建物の位置関係を知ることができる。
明治15(1882) 原寸53×79cm 簿書7746(2)
 札幌農学校校舎の建築図面 画像(PDFファイル)

公立函館病院の完成予想図

明治13(1880)年新築が計画された公立函館病院の完成予想図。
公立函館病院は、それまで開拓使が所管していた官立病院の廃止決定を受け、地元有志の寄付金を主な財源として建築が計画され翌年落成。
明治13(1880) 原寸27×93cm 簿書4875(1)
 公立函館病院の完成予想図 平面図画像(PDFファイル)
 公立函館病院の完成予想図 正面図画像(PDFファイル)

5 電信と郵便

文字を電気信号に変換し送受信する電信は、明治7(1874)年10月に道内の専用線が開通し、津軽海峡の海底線を介して本州との通信が可能となりました。
一方、郵便は、明治5年に函館郵便役所が設置され、人馬継立の拠点であった駅逓所を利用して全道に広がり、9年には全道を一周する路線が完成しました。

函館電信分局の完成予想図

函館電信分局の新築計画図。明治7年に開業した電信分局は、明治12年の函館大火で全焼、しばらく民家を借りて営業していたが、明治14年に新庁舎が落成した。
[明治13(1880)] 原寸48×54cm 簿書4173(1)
 函館電信分局の完成予想図 画像(PDFファイル)

海峡を結ぶ電信線

北海道(福島)と本州(青森県今別)とを海底で結ぶ電信の専用線は、明治7(1874)年9月に完成したものの、たびたびの故障に見舞われた。図は明治10年の復旧工事の際に作成されたもの。
[明治10(1877)] 原寸40×28cm 簿書2049(163)
 海峡を結ぶ電信線 画像(PDFファイル)

全道に広がる郵便網

明治10年当時の、郵便の路線・里程や逓送の時間が記された図。この前年に全道を一周する郵便網が完成していた。
[明治10(1877)] 原寸 51×73cm 簿書2203(125)
 全道に広がる郵便網 画像(PDFファイル)

郵便箱の雛形図

明治5年以降、全国に設置された郵便受取箱(ポスト)は、その形状がばらばらであった。図は、駅逓局長前島密から、今後新規製作するときの規格として指示されたもの。
[明治11(1878)] 原寸 27×40cm 簿書6964(23)
 郵便箱の雛形図 画像(PDFファイル)

6 警察と監獄

北海道の警察は、明治5(1872)年に函館に次いで札幌に人民保護を第一の目的とした邏卒(ポリス)が置かれたことに始まります。
また、監獄は当初用度庫など既存の施設を転用してしていましたが、8年には獄舎が札幌雨龍通(北6条東2丁目付近)に建設されるなど、囚人の増加に対応できるよう施設整備がなされました。

邏卒(らそつ)の制服・提灯・旗

明治5年8月、函館に道内初の邏卒(ポリス)制が発足した。これに伴い、職務内容や邏卒が使用する制服、提灯、旗などの形が定められた。
明治5(1872) 原寸27×16cm 簿書10697(48)
 邏卒(らそつ)の制服・提灯・旗 画像(PDFファイル)

函館警察署

はじめ邏卒屯所と称していた函館の警察署は、明治10年と同12年の2度にわたり焼失した。図は明治14年に新築落成した函館警察署の建築計画図で、1万円を超える建築費用を要した。
明治13(1880) 原寸28×39cm 簿書4168(1)
 函館警察署 画像(PDFファイル)

監獄本署の建築

明治13(1880)年に札幌郡苗穂村に建設された札幌監獄署の建築平面図。
明治5年の太政官達「監獄則并図式」に基づき設計された建物は、中央に配置された看守所から四方に伸びる獄舎を「一目洞視」できるようになっている。
[明治10年代] 原寸27×39cmほか 簿書7176(2)
 監獄本署の建築 画像(PDFファイル)

7 七重勧業試験場

開拓使は、勧農・殖産を進めるため積極的に西洋の技術を取り入れるとともに、輸入した種子や樹木を試し、家畜の飼育方法などを習得する場所として、各地に農場や試験場を設置しました。
七重勧業試験場はその代表格で、特に西洋農具はここを中心に全道に広がりました。

米国へ発注した西洋農具

明治10年に米国サンフランシスコへ発注した西洋農具の図。七重で製作する農具の見本となり、また直接農家へ持って行って、扱い方を指導することもあった。画像は、ニューモツルモワー(草刈り機)テイラーレイキ(草聚(あつめ)機)緬羊毛苅鋏、草木・緬羊爪切鋏
[明治10(1877)] 原寸 27×17cmほか 簿書2140(13)
 米国へ発注した西洋農具 草刈り機 画像(PDFファイル)
 米国へ発注した西洋農具 草聚機 画像(PDFファイル)
 米国へ発注した西洋農具 緬羊毛苅鋏ほか 画像(PDFファイル)

七重勧業試験場 水車場

七重の自然の傾斜地を生かして建設された水車場では、おもに製粉・精米、雑穀の挽き割りが行われ、小麦粉やそば粉などを生産した。
[明治10(1877)] 原寸 27×73cm  簿書2153(75)
 七重勧業試験場 水車場 画像(PDFファイル)

七重勧業試験場 家畜房(バーン)

家畜房の2階部分には干草置き場があり、1階に牛馬の家畜を収容、地下に家畜の糞尿を溜めて肥料にする構造だった。
[明治12(1879)]原寸 130×27cm 簿書6463(25)
 七重勧業試験場 家畜房(バーン) 断面図 画像(PDFファイル)

8 養蚕と製糸

開拓使は、養蚕を奨励し紡織の盛んな群馬県に女工を派遣して技術を学ばせるなど、製糸業を育てようと力を注ぎました。
明治9(1876)年には、富岡製糸場に倣い最新式の蒸気機関などを備えた、札幌製糸場が開業しました。

養蚕に用いられた様々な道具

七重勧業試験場大野養蚕室の新設にあたって製造発注した道具類の図。
[明治10(1877)] 原寸 27×97cm 簿書2155(-)
 養蚕に用いられた様々な道具 画像(PDFファイル)

成長する蚕

刊本『開拓使本庁蚕織報文』挿入画の原稿。
養蚕振興のためには繭をつくる蚕の育成が重要であり、その生態が記録された。いまにも動き出しそうな精緻な描写である。
[明治12(1879)] 原寸 21×16cm 3枚 簿書3722(-)
 成長する蚕 その1 画像(PDFファイル)
 成長する蚕 その2 画像(PDFファイル)
 成長する蚕 その3 画像(PDFファイル)

札幌製糸場内の繰糸器

明治9年に操業を開始した札幌製糸場(同年、紡織所と改称)の繰糸器。富岡製糸場の器械を模造して東京で製作、24座を設置した。
[明治9(1876)]原寸 15×27cm 簿書1902(-)
 札幌製糸場内の繰糸器 その1 画像(PDFファイル)
 札幌製糸場内の繰糸器 その2 画像(PDFファイル)

第一号桑園

第一号桑園は、現在の北1条通の北側、西は川を隔てて円山村に接する広大な敷地を有し、現在の桑園という地名の由来となった。右(東)側のはずれに、札幌養蚕室が描かれている。
[明治16(1883)] 原寸 71×104cm 簿書7790(-)
 第一号桑園 画像(PDFファイル)

9 麦酒・葡萄酒の醸造

明治9(1876)年、いまの北2条東3~4丁目に、麦酒醸造所と葡萄酒醸造所が隣り合って建設、開業しました。
なかでも麦酒の醸造は開拓使の殖産興業の目玉となり、のちに民間に払下げられサッポロビールへと発展しました。

札幌麦酒醸造所

開業から10年たった当時の麦酒醸造所の平面図。
一部4階建てで広い貯蔵庫も備えていた。この図の作後間もなく、札幌麦酒製造所は大倉組(大倉喜八郎)に払い下げられ、官営の時代は終わる。
[明治19(1886)] 原寸 73×79cm 簿書7750(5)
 札幌麦酒醸造所 画像(PDFファイル)

札幌葡萄酒醸造所

北2条東3丁目に開設された、札幌葡萄酒醸造所の図。建物裏手に、丸く土を盛ってつくった貯蔵庫がみえる。赤・白の葡萄酒のほか、ブランデー、ウィスキー、焼酎も試製した。
[明治15(1882)] 原寸 26×57cm 簿書7748(19)
 札幌葡萄酒醸造所 画像(PDFファイル)

麦酒ラベル

札幌麦酒のトレードマークには、創業当初から開拓使のマークである北極星が使われた。このラベルは、明治17年ころに製造していた「札幌エキスポートビール」と「札幌ラガービール」」の2銘柄のもので、後者には飲み方の説明文がついている。
[明治17(1884)]原寸 12×27cm  簿書10066(27)
 麦酒ラベル 画像(PDFファイル)

葡萄酒ラベル

葡萄酒は、札幌に植樹されたアメリカ産の葡萄を使い、フランスの製法にならって明治10(1877)年に本格的な醸造が始まった。
[明治18(1885)] 原寸 9×12cm 2枚 簿書9325(68)
 葡萄酒ラベル 画像(PDFファイル)

葡萄酒蒸溜器

明治18年に、新たにドイツに発注した葡萄酒蒸溜器仕様図。既成のものを一部手直しするよう指示している。この半年後、注文品を載せてドイツを出港した船が沈没するというアクシデントがあり、納品は大幅に遅れた。
[明治18(1885)] 原寸 21×33cm 簿書10064(64)
 葡萄酒蒸溜器 画像(PDFファイル)

10 缶詰製造

缶詰は代表的な鮭・マスのほか鹿肉も製品化され、試作品では果物の砂糖漬缶詰もありました。缶詰製造所はまず石狩に、次いで美々・別海・紗那(千島)・厚岸にも作られています。さまざまな美しいラベルに、製品開発の意気込みが感じられます。

別海の缶詰製造所

明治11年に西別川口に建設された缶詰製造所で、西別川産の鮭・マスの缶詰を主に製造した。
[明治11(1878)] 原寸 27×88cm  簿書2991(24)
 別海の缶詰製造所 画像(PDFファイル)

フランス型缶詰製造器

工部省技術者にフランス製を模して作らせ、明治13年から使用した。この装置の導入により、缶詰製品の品質が向上したとされる。
[明治12(1879)] 原寸 73×102cm 簿書3747(101)
 フランス型缶詰製造器 画像(PDFファイル)

様々なラベル

簿書9241_002-2.jpg北海道根室国西別産さけ缶詰 別海缶詰製造所(明治11年設立)製
簿書9241_001-2.jpg北海道厚岸産かき缶詰 厚岸缶詰製造所(明治13年設立)製
いずれも簿書9241『雑件簿 明治十八年』(明治16~18年)の(52)部分にあります。

七重勧業試験場が明治13年、内国勧業博覧会出品用に試製した製品のラベルデザイン。簿書4467『化装紙書類 明治十三年自一月至九月』(66)

簿書04467_004.jpg羊肉缶詰

簿書04467_001.jpgなし砂糖漬

簿書04467_002-1.jpgりんご砂糖漬

明治17年、商標条例の布告に伴い商標登録されたと思われる各種製品のうち、缶詰のラベル。簿書10066『局長決判書類 明治十九年』(27)

簿書10066_003(余白トリミング).jpg北海道石狩川産さけ缶詰

簿書10066_002(余白トリミング).jpg北海道石狩川産さけすづけ(酢漬け)缶詰

11 狩猟と獣皮

明治前期の北海道では、熊、臘虎、鹿など様々な動物が狩猟の対象となりました。開拓使では、毛皮が高級品として珍重される臘虎の密漁を取り締まるとともに、自ら狩猟に乗り出し、皮革業者に製法を問い合わせるなど、毛皮の製品化を鹿皮についても、同様に製品化の試みを行いました。

外国船による臘虎(らっこ)の密猟

千島の択捉周辺に出没する外国の密漁船が、臘虎の密猟を行う図。密漁船は臘虎を発見すると複数の小舟で取り囲み、銃で狩猟した。
[明治6(1873)] 原寸 25×34cm 簿書1184(8)
 外国船による臘虎(らっこ)の密猟 画像(PDFファイル)

臘虎の毛皮製法

臘虎の皮を剥ぎ取り精製する手順を示した図。開拓使が毎年毛皮製造を命じていた東京浅草の皮革業者に、解説書とともに提出させた。疵なく美しく仕上げるほど、高値で輸出できた。
[明治10(1877)] 原寸 26×19cm 簿書3005(45)
 臘虎の毛皮製法 画像(PDFファイル)

模様入り鹿革の見本

函館製革所が、道内で多く産する鹿の革加工技術の習熟と所内での製品化をめざし、東京の業者から取り寄せた鹿革商品の見本。当時、色付きの皮革は、木履・雪駄の皮緒や衣料用として人気が高まっていた。
[明治12(1879)] 簿書3327(78)
 模様入り鹿革の見本 画像(PDFファイル)

12 水産加工器具の工夫

北海道の水産製品は、田畑の肥料となるニシン粕が約半分を占め、そのほか塩漬の鮭やマス、身欠きニシンや昆布などがありました。製品はしばしば粗悪乱造が問題になり、品質の改良がこの時期の課題でした。

ニシン乾製室

石炭ストーブを使ってニシンを蒸し、絞め粕や身欠ニシンを製造する大がかりな設備の図。黒田長官が、ニシン加工品が雨露にさらされて腐敗する様子を目にして設計を命じたものだが、実用化は進まなかった。
[明治11(1878)] 原寸 26×38cm 2枚 A4/87(59)
 ニシン乾製室 画像(PDFファイル)

刻み昆布製造器

厚岸郡浜中で新規開発された器機。昆布は清国向け輸出品の首位を占めてきた水産物で、刻み昆布製造の機械化が可能かどうか検討されていた。
[明治12(1879)] 原寸 28×75cm 簿書3040(165)
 刻み昆布製造器 画像(PDFファイル)

魚粕圧搾器

魚粕(ニシンやイワシの絞り粕)を製造する器具の試作図。
水分を含んだままでは腐敗しやすいため、北海道庁が廉価で効率的な圧搾器を試作し、漁家への普及を図っていた。
[明治19(1886)] 原寸 95×136cm Ma-1/6
 魚粕圧搾器 画像(PDFファイル)

13 漁業の風景

明治前期の北海道では、総生産額の4分の3を水産物が占め、漁業が圧倒的な地位にありました。開拓使の施策によって、誰もが自由に漁業を営むことができる道が開かれるとともに、数々の保護振興策が推し進められたことで、水産総額も大幅に増加しました。

整備された漁場

磯谷郡能津登村(いまの寿都町)の漁民が新規整備した漁場の図。海岸沿いに垣根の付いた大小数カ所の海産干場を設け、漁獲した鰊や鮭を加工処理する場所が整えられている。
[明治14(1881)] 原寸 18×79cm 簿書4959(83)
 整備された漁場 画像(PDFファイル)

尻別川鮭漁の許可位置

磯谷郡尻別川の流域図に、この年鮭漁を許可された漁民の名札が場所ごとに貼付されている。鮭は早くから資源保護が意識され、出漁者には届出や納税の義務が課せられていた。
[明治16(1883)] 原寸 27×38cm 簿書8381(105)
 尻別川鮭漁の許可位置 画像(PDFファイル)

漁猟図説

ベルリン漁業博覧会に出品した図の一部で、産物豊富な根室・釧路・北見・千島の地での漁法が紹介されている。図は、氷の上から銛で突くコマイ漁と、犬にも手伝わせた鮭漁の様子。
[明治12(1879)] 原寸 25×17cm 2枚 A4/542
 漁猟図説 画像(PDFファイル)

14 博覧会

明治政府は、殖産興業を推進するため各種技術の普及を目的として、明治10(1877)年から同36年にかけて計5回、内国勧業博覧会を開催しました。開拓使は、この博覧会に官営事業の成果を出品する一方、明治11年からは札幌と函館で毎年交互に農業仮博覧会を開催しました。

博覧会で受賞した木製家具

明治14年、東京上野公園で開催された第2回内国勧業博覧会に道内から出品され、受賞したタンスや椅子などの木製家具の図。開拓使札幌本庁工業局が所管する工場で製作された。
[明治14(1881)]原寸 27×17cm 簿書7141(11)
 博覧会で受賞した木製家具 画像(PDFファイル)

北海道初の博覧会

明治11(1878)年に札幌で開催された第1回農業仮博覧会の会場と展示陳列風景。札幌本庁管内と七重勧業試験場からの産品に限定されたが、農業の奨励に大きな効果を与えた。
[明治12(1879)] 原寸 27×36cm他 簿書3348(43)
 北海道初の博覧会 画像(PDFファイル)

函館での博覧会陳列品

明治12年に函館で開催された第2回農業仮博覧会の陳列品の図。種子や苗木、果物といった農産品や水産加工品など282種類が展示され、第1回より規模も大きくなり、5日間の会期に約1万1千人が来場した。
[明治12(1879)] 原寸 91×96cm Ma-1/116
 函館での博覧会陳列品 画像(PDFファイル)

15 屯田兵

屯田兵は、移住民の保護や対ロシア国防上の理由から配備された北海道独自の軍隊組織で、非常時以外は開墾に従事していました。明治8(1875)年に最初の屯田兵が琴似に入植、以後山鼻、江別、新篠津と続き、明治32(1899)年まで全道に37の兵村が建設されました。

屯田兵の制服と隊旗

屯田兵の制服や隊旗は、陸軍歩兵のものに準拠しながら、開拓使のシンボルマークである北辰(北極星)をあしらったデザインに定められた。
明治8(1875)原寸 27×17cm 2枚 簿書10725(30)
 屯田兵の制服と隊旗 画像(PDFファイル)

山鼻屯田兵給与地図

明治9(1876)年に入植した山鼻屯田兵240戸の宅地や農耕地の区割図。屯田兵には、1戸あたり1万5千坪まで段階的に給与された。屯田兵屋が向かい合う密集した2本の道路は、いまの西屯田通りと東屯田通り。
[明治後期] 原寸 53×118cm H23124
 山鼻屯田兵給与地図 画像(PDFファイル)

江別屯田兵 洋造兵屋とストーブ

江別屯田兵の兵屋とストーブ設備の設計図。
明治11(1878)年に江別太に入植した江別屯田兵には、お雇い外国人の助言で試験的に洋造兵屋が用意されたが、以後同様の兵屋は作られず、唯一の洋造兵屋となった。
[明治9(1876)] 原寸 26×79cmほか 簿書5863(4)
 江別屯田兵 洋造兵屋とストーブ 画像(PDFファイル)

16 移住者のための市街地図

明治前期の移住開拓は、首府として建設された札幌のほかは沿岸部の地域にとどまり、内陸部へと広がっていくのは明治中期以降のことでした。移住民への土地の払下げのために作られた、札幌と寿都の2枚の図をご紹介します。

札幌市街地明細図

札幌市街地の北側は官用地とされていたが、官用地の中に生じた数カ所の空き地を有効活用するため、一般移住者への払下げが計画されたときの図。明治10年当時の土地用途や居住者名までも知ることができる。
[明治10(1877)] 原寸 28×43cm 簿書6411(33)
 札幌市街地明細図 画像(PDFファイル)

寿都港沿土地区割図

寿都港に沿った地域の土地払下げ用に作成された図。港や道路に面した土地は、できるだけ幅員を狭くして区割りし、あらかじめ用途を定めて出願者を募った。
[明治15(1882)] 原寸 80×181cm 簿書7676(65)
 寿都港沿土地区割図 画像(PDFファイル)

17 北海道独自の建築様式

開拓使は寒冷地に適した強固な建築を奨励し、特にロシア風の建築様式が着目されました。

ロシア風の民家

札幌区上白石村の農家が提出した自宅の新築設計図。丸太を積み上げたロシア風の造りで、こうした改良型の家屋を新築する場合には開拓使から建築費の貸与を受けられる制度があった。
[明治13(1880)] 原寸 26×36cm他 簿書3914(12)
 ロシア風の民家 その1 画像(PDFファイル)
 ロシア風の民家 その2 画像(PDFファイル)

今井呉服店の土蔵

開拓使から建築費の貸与を受けるために申請した、今井藤七家の土蔵設計図。今井藤七が明治7(1874)に創業した今井呉服店は、その後丸井今井百貨店へと大きく成長した。
[明治14(1881)] 原寸 25×36cm 簿書4652(5)
 今井呉服店の土蔵 画像(PDFファイル)

函館会館(クラブ)新築設計図

函館会館は、函館松蔭町(いまの大町)に建設が決まっていた外国人接待用の会堂。
函館最初の本格的洋館として期待されていたが、建設中の明治12年12月に函館大火で全焼し、その後の再建はならなかった。
[明治12(1879)] 原寸27×38cm他 簿書6463(21)
 函館会館(クラブ)新築設計図 画像(PDFファイル)

18 北国の生活道具

北国の生活に必要な道具づくりにも、建築物と同様、ロシアをはじめとする諸外国の知恵がいかされました。

ロシア型馬橇と馬蹄

明治11(1878)年、ロシアのウラジオストクを視察した開拓長官黒田清隆は、馬車や馬橇などを持ち帰り、これを見本にして職人に作らせることで、一般への普及を図った。馬蹄には、冬道用に爪が施されている。
[明治10年代] 原寸 25×36cm他 A4/320(-)
 ロシア型馬橇と馬蹄 馬橇 画像(PDFファイル)
 ロシア型馬橇と馬蹄 馬蹄 画像(PDFファイル)

日本初のストーブ「カッヘル」

安政3年、箱館奉行が北辺地域で越冬する役人のために作らせたカッヘル(オランダ語でストーブ)仕様図。箱館港に停泊する英国船に乗り込み、直接カッヘルを観察・模写したという。
[安政3(1856)] 原寸 30×25cm 簿書10(7)
 日本初のストーブ「カッヘル」 画像(PDFファイル)

豊平館の料理竈

明治13(1880)に竣工した官設の洋風ホテル豊平館の料理竈の図。アメリカ式の建築様式で知られる豊平館だが、料理竈はロシア式で作られた。
[明治10年代] 原寸 26×36cm A4/320(-)
 豊平館の料理竈 画像(PDFファイル)

19 災害

開拓移住が進む明治の北海道にも、大火事、水害、蝗害、冷害など様々な災難が襲いました。
被災の状況を報告するために大急ぎで描かれた絵図の中には、現場の臨場感を伝えようとする意外なほど端正なものも残されています。

トノサマバッタの襲来

明治15年8月、札幌育種場をトノサマバッタの大群が襲った。バッタが田畑に下りて食物を食い尽くさないよう、鳴り物をならしたり火をおこしたりして必死に追い払おうとしている。
明治15(1882)原寸 28×37cm 簿書7785(57)
 トノサマバッタの襲来 画像(PDFファイル)

山火事

明治16年8月に発生した、岩内郡堀株村(いまの泊村)ほか四ケ村にまたがる広範囲の官林火災被害状況図。地元住民が消火にあたるが、有効な消火設備のない時代、鎮火まで2週間を要した。
明治16(1883)原寸 32×395cm 簿書7963(31)
 山火事 画像(PDFファイル)

樽前山の噴火

樽前山は、過去300年余りの間に何度も噴火を繰り返しているが、これは明治16年10月の噴火の状況を表したもの。報告書には、「大俵の如き石が散乱している」とある。
[明治16(1883)] 原寸 28×39cm 簿書8812(46)
 樽前山の噴火 画像(PDFファイル)

20 明治14年の行幸

開拓使十年計画の終了をまえに、拓殖の状況を天皇に詳しくご覧いただこうと、明治14(1881)年の夏、札幌・室蘭・函館などへの行幸が実現しました。

御浴室と行在所掲示板

行幸中ご休泊になる行在所のうち、森村に新築された御浴室と掲示板の設計仕様図。
[明治14(1881)] 原寸 26×16cm他 A4/140(60)
 御浴室と行在所掲示板 画像(PDFファイル)

函館行幸道筋検討図

函館市街地をいく行幸馬車の順路を検討中の図。この後短縮されて実際の順路は違ったものになるが、当初函館の担当者が、まちのどこをご覧いただこうとしていたかを知ることができる。
[明治14(1881)] 原寸 55×52cm A4/14(18)
 函館行幸道筋検討図 画像(PDFファイル)

行幸の全行程と日程

行幸の道筋や日程の計画図。海路小樽に上陸し、札幌周辺をくまなくご覧いただいたあと、千歳・白老を経て室蘭から船で森に渡り、函館から海路東京へという、道内だけでも8泊にのぼる長い行程だった。
[明治14(1881)]  原寸53×151cm A4/131(61)
 行幸の全行程と日程 画像(PDFファイル)

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