1 戦前の北方領土の姿
(1) 産 業
産業は、「水産業」・「水産加工業」が中心でした。
「北方領土」の産業は、港湾、道路、橋梁等の整備が遅れ、教育、医療などの生活環境の改善も不十分であったが、豊富な漁業資源を背景に、水産業・水産加工業が盛んに行われていました。 農畜産業は、自家消費用、あるいは、副業程度に止まり、森林資源も蓄積は大きかったものの、開発は遅れていました。 また、鉱物資源も多くの鉱種の埋蔵が確認されていましたが、立地条件が悪く、採掘鉱の開発はあまり進みませんでした。 |
◎産業別世帯数 主な産業別の世帯数は、全世帯の66.1%が漁業に従事し、残りは商業、その他となっていました。 漁業労務者が不足していたため、毎年4、5月から11月にかけて、島外から、約8,000人余の出稼ぎ労務者が島に来て働いていました。 |

内岡日水捕鯨場(千島連盟提供)
ア 水産業
(世界3大漁場のひとつ)
■北方領土周辺海域は、①暖寒流の交わる地点であり、豊富な水産資源を有すること、②北海道と陸棚を形成しており、底棲魚貝類の絶好の棲息場となっていることから、古くから、世界3大漁場のひとつとして数えられてきました。
◎北方領土の水産資源
| 分 類 |
魚 種 |
| 暖流系回遊魚 |
まぐろ、さんま |
| 寒流系回遊魚 |
さけ、ます、にしん |
| 寒流系底棲魚 |
たら、すけとうだら、おひょう、かれい |
| 甲殻類 |
毛がに、たらばがに、ずわいがに、花咲がに、えび、 |
| 貝類 |
ほたて、ほっき |
| 海藻類 |
昆布、のり |
(わが国の水産業における地位)
■昭和14年から16年までの年平均漁獲量は、211,265トン(北海道水産物検査所調べ)に達し、わが国の水産業の上で、重要な地位を占めていました。
これらの多くは、塩ざけ、塩ます、開きたら、魚かす、缶詰、長切りこんぶなどに加工して国内消費に向けられたほか、海外にも輸出されました。
(代表的漁業は、さけ・ます)
■この地域の当時の代表的漁業としては、「さけます定置網漁業」、「たら漁業」、「たらばがに漁業」、「昆布採取業」が上げられます。
◎各漁業の状況
| 漁業名 |
島名 |
主体 |
| さけます漁業 |
国後、択捉 |
大手水産会社・中小漁業資本 |
| たらばがに漁業 |
国後、色丹 |
| たら漁業 |
色丹、択捉 |
個人自営業 |
| 昆布採取業 |
歯舞、色丹、国後 |
イ 農畜産業
農 業
■気候が北海道の道東地方と大差なく、営農も十分可能ででしたが、水産業に重点が置かれていたことから、専業農家は、択捉島、国後島に少数あったのみでした。
■実際に、栽培されていたのは、「自家用そ菜」や「飼料用えん麦」、「牧草」程度でしたが、当時の北海道庁の試作結果では、適切な管理を行えば、「大麦」、「小麦」、「そば」、[馬鈴薯」、「そ菜」、「牧草」の栽培で、営農は十分に可能であるとされていました。
畜 産
■北方領土は、気象条件から畜産に適した地域であり、土地の確保や営農上の諸条件(労働・資本の投入、交通インフラ)を整備すれば、畜産の発展は十分可能と見られていました。
■昭和15年の北海道庁調査では、牛や馬の放牧適地面積は、100,165ha、そのうち、放牧に使われていた面積は、52,562haで、農漁業の副業として、「肉用牛」、「使役馬」が飼育されていたが、その放牧、繁殖とも、自然にまかされていました。
(馬)
■南部系土産馬を移入し改良を行い、昭和14年当時、約5,800頭が各島々で四季を通じ、放牧されていました。
| 島名 |
頭数 |
| 歯舞 |
1,100頭 |
| 色丹 |
200頭 |
| 国後 |
2,900頭 |
| 択捉 |
1,600頭 |
(牛)
■主に短角系雑種の畜牛が、国後、択捉両島で、約270島が飼育されていました。乳牛は、左記両島で、10島程度飼育されていました。
(その他)
■色丹島では、野生の狐を禁猟とし、保護を行っていました。また、漁家の副業として、色丹島、国後島、択捉島では、約80頭の狐が飼育されてました。
ウ 林 業
■北方領土での年間伐採量は、樹林の存在した国後、択捉、色丹の3島で約139,000立方メートルあり、建築、漁船建造その他箱材に使用され、一部は良材として、函館、根室地方にも移出されていました。
◎各島の森林資源の状況
| 島名 |
森林の状況 |
樹林 |
1ha当り蓄積量 (立方メートル) |
|
歯舞 |
ほとんど樹林なし |
- |
- |
|
色丹 |
総面積の20%が立木地 |
白樺を主とする広葉樹林 |
19 |
|
国後 |
50%が原始林、40%が疎林 |
とど松、えぞ松等の良質の針葉樹林が90% 樺類・なら等の広葉樹の混生林10% |
278 |
|
択捉 |
50%が原始林、20%が疎林 |
南部-とど松、えぞ松の純林 中部-しこたん松、広葉樹の混生林 北部-広葉樹林 |
南部-167 中部-111 北部-56 |
エ 鉱 業
■千島火山帯に属する択捉、国後両島では、金、銀、銅をはじめ、各種の鉱山資源の埋蔵が確認され、試掘鉱数も149を数えていましたが、交通不便と生産費が割高であったため開発が遅れ、わずかに、金、銀、硫化鉄が生産されていました。
■開発の遅れは、地質、鉱床調査の不十分さと労力、資材、船舶の不足が原因であり、将来におけるこの地域の地下資源の開発は、きわめて重要と見られていました。
(2)行政
(町村制の施行)
■歯舞群島は大正4年4月に町村制がされ、花咲郡歯舞村の行政区域に入ったのをはじめ、大正12年4月には、色丹、国後、択捉の各島についても町村制が施行されました。
◎1923年(大正12年)4月時点の町村名
|
島名 |
郡名 |
町村名 |
摘要 |
| 歯舞群島 |
花咲郡 |
歯舞村 |
|
| 色丹島 |
色丹郡 |
斜古丹村 |
昭和8年10月色丹村と改称。 |
| 国後島 |
国後郡 |
泊村 留夜別村 |
|
| 択捉島 |
択捉郡 紗那郡 藥取郡 |
留別村 紗那村 藥取村 |
|
◎主な官公署・公共施設
| 営林官署、水産物検査所、さけ・ます孵化場、郵便局、警察官署、裁判所出張所、測候所、村役場、根室支庁出張所、小学校 |
■その後、昭和18年6月制度の改正により北海道町村制が施行され、これに移行しました。 更に、歯舞群島は、昭和34年4月花咲郡歯舞村が廃され、根室市に編入されたことに伴い、現在、根室市の行政区域となっています。

千島調査所(千島連盟提供)
(3)交通、通信
航 路
■島々と北海道本土を連絡する「北海道庁命令航路」には、根室を起点とする「根室近海線」、「根室択捉線」、函館を起点とする「函館択捉線」がありました。
根室・色丹間と函館・年萌(択捉島)間は、通年運航、その他は、4月から12月まで、いずれも、各月2回から4回運航されていました。
■漁繁期には、漁業者及び漁業組合等の運航する自由航路もありましたが、この地域にとって、「命令航路」は、必要欠くべからざるものでした。
命令航路
港 湾■天然の良港が多く、自然の湾形を利用していましたが、港湾施設が不十分であり、基幹産業である漁業の発展や冬季の交通・物資輸送の確保が難しい状況にあったため、施設整備が急がれていました。
道 路■準地方費道、拓殖費支弁町村道、町村費支弁町村道を合わせた認定路線の延長は、1,200キロあまりでした。しかし、重要路線である準地方費道でも、開削改良されたものは、半分にも満たず、工法も簡易工法によるものが多く、橋梁も不備で、車馬通行の可能な区間は僅かで、その整備は、開発上の重要な課題となっていました。
通 信■秋勇利島を除く各島には、郵便、電信を取り扱う郵便局が合計23局あり、このうち、色丹局と紗那局には、無線電信施設がありました。
また、根室・国後間には、海底電信が設けられていました。
(4)教 育
■北方領土での教育は、明治8年開拓使派遣の医師が国後島の泊において、寺子屋風の私塾を開いたのが始まりといわれています。
明治13年4月には、根室管内で2番目の学校として、「国後学校」が泊に開設されました。同年9月には、「紗那学校」が択捉島に開設されるなど、早くから学校教育が行われていました。
しかし、教育施設は、小規模校が中心で、いずれも複式校でした。
◎終戦時の学校数等
| 島名 |
学校数 |
学級数 |
児童数 |
教員数 |
| 歯舞 |
7 |
19 |
831 |
24 |
| 色丹 |
5 |
6 |
127 |
8 |
| 国後 |
15 |
31 |
1,423 |
41 |
| 択捉 |
12 |
17 |
602 |
27 |
| 計 |
39 |
73 |
2,983 |
100 |

色丹小学校(千島連盟提供)
2 終戦後の状況
(1)ソ連邦の占拠
(日ソ中立条約の破棄とソ連軍の侵攻)
■1945年4月、連合国軍が沖縄本島に上陸を開始し、戦局が最終段階に入った同月5日、ソ連邦は「日ソ中立条約」の不延長を通告してきました。その後、7月26日にポツダム宣言が発せられ、8月9日、突如として、ソ連は日本に対し、一方的に宣戦を布告してきました。
わが国は、8月14日にポツダム宣言を受諾し、戦争が終結しましたが、ソ連軍は、8月9日に樺太国境で、8月16日には、カムチャッカ方面から行動を起こし、占守島を砲撃し、18日には、上陸を開始しました。
(ソ連軍の北方領土への進駐)
■千島列島北部の占守島への侵攻を受けた日本軍は、自衛のための戦端を開き、日ソ両軍とも、多くの戦死者を出した末、8月23日に局地停戦協定が成立しました。
その後、ソ連軍は次第に南下し、8月28日には、択捉島、9月1日には、国後、色丹両島、9月3日には、歯舞群島に上陸しました。その兵力は、およそ、9,400名といわれています。
(侵攻の完了)
■各島に進駐したソ連軍は、まず、電信、電話線を破壊または接収し、更に、一切の船舶に対して、各島間及び北海道との航行を禁止し、日本軍の武装解除を行いました。
9月2日に、東京湾上の米国戦艦「ミズーリ号」艦上で、降伏文書に署名した前後に、ソ連軍は、千島諸島をはじめ、わが国固有の領土である、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の島々を占拠していました
◎終戦当時のソ連軍の侵攻の状況等
|
月 日 |
日本政府の動き |
ソ連の動向 |
| 4月5日 |
|
昭和21年4月25日まで有効の「日ソ中立条約」の不延長を通告 |
| 7月26日 |
「ポツダム宣言」署名(米、英、中) |
|
| 8月9日 |
|
対日宣戦布告 |
| 8月15日 |
「ポツダム宣言」受諾・終戦 |
|
| 8月18日 |
|
千島列島占領(~8月27日) |
| 8月28日 |
|
北方四島占領(~9月5日)、択捉島留別港に上陸。 |
| 9月1日 |
|
国後、色丹島に上陸。 |
| 9月2日 |
ミズーリ艦上で、降伏文書に署名。 |
|
| 9月3日 |
|
歯舞群島に上陸。 |
| 21年2月 |
|
歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島及び千島諸島を自国領に編入。 |
(2)元居住者の引き揚げ
(島からの脱出)
■ソ連軍に占拠され、島民の約半数は不安と恐怖のあまり、地域的につながりの深かった根室方面に脱出しました。しかし、次第にソ連軍の監視も厳しくなり、脱出も困難となりました。
(引き揚げの状況)
■各島に残っていた島民は、抑留され、昭和22年から23年にかけ、本土に強制的に引き揚げをさせられました。
引き揚げ経路は、ソ連船によって、いったん樺太に集結された後、同地から日本船で函館市に上陸し、それぞれ縁故や知人を頼って、国内各地に向かいました。
◎北方四島元居住者・後継者数
| 島名 |
元居住者数 |
後継者数 |
|
S20.8.15 |
H19.3.31 |
二世 |
三世 |
四世 |
計 |
|
歯舞群島 |
5,281 |
2,573 |
5,036 |
3,392 |
39 |
8,467 |
|
色丹島 |
1,038 |
425 |
948 |
758 |
5 |
1,711 |
|
国後島 |
7,364 |
3,374 |
7,062 |
5,720 |
67 |
12,849 |
|
択捉島 |
3,608 |
1,597 |
3,156 |
2,277 |
20 |
5,453 |
|
計 |
17,291 |
7,969 |
16,202 |
12,147 |
131 |
28,480 |
◎地域別北方四島元居住者の居住地
(人)〔H19.3.31現在〕
|
道内 |
道外 |
計 |
|
道内計 |
根室市 |
根室管内四町 |
その他 |
| 5,993 |
1,745 |
588 |
3,660 |
1,976 |
7,969 |