歴史的経緯

(17世紀)


松前藩が幕府に提出した地図の画像

 

■北方の島々と北海道との間には古くから交通があり、多くの交易が行われて
いました。当時の北海道を治めていた松前藩の記録である「新羅之記録」によると、
1615年(元和元年)に、メナシ地方に住んでいたアイヌの人たちがラッコの皮を
松前藩主に貢物として送り、松前藩はこれを徳川幕府に献上したと記録されてい
ます。

*メナシ地方・・東方の意味

■北海道本島に生息しないラッコを貢物としたことは、北方の島々に住むアイヌの
人たちと北海道の間に交易があったと考えられます。
■1644年(正保元年)、幕府は、諸藩に国(藩)ごとの地図の作成を命じましたが、
松前藩が提出した地図(正保御国絵図)には、知床半島と納沙布岬の東北に大小
39の島々がかかれており、そのうち、34の島には、「くなしり」、「えとほろ」、「うるふ」
などの名前がつけられていました。

松前藩が幕府に提出した地図





(18世紀)

■ロシアは、18世紀のはじめ頃から「千島」に進出を開始し、しばしば、探検隊を送り調査しただけでなく、ラッコの捕獲などを行ったこともありましたが、択捉島のすぐ北の得撫島を越えて、南下してきたことは、一度もありませんでした。
 これは、江戸幕府が、択捉島及びそれより南の島々に番所を置いて、外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を治めていたことによります。

◎江戸幕府の北方領土統治

年 

内      容

1754
(宝暦4年)

松前藩が国後場所を開設。
商船を送り込み、厚岸、国後を根拠とするアイヌの人たちとの交易が活発となった。

1786
(天明6年)

最上徳内、択捉島に渡り、ロシアの南下の様子を調査。

1798
(寛政10年)

幕府は、択捉島に近藤重蔵らを派遣。
近藤らは、同島丹根萌に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建立。

1799
(寛政11年)

幕府は、北方領土を含む東蝦夷地を直轄とする。
高田屋嘉兵衛、択捉航路を開く。

1800
(寛政12年)

高田屋嘉兵衛、択捉島に17ヶ所の漁場を開く。


(19世紀前半)

■1811年(文化8年)千島近海測量の途中、国後島に立ち寄ったロシアのゴローニン船長らが南部藩に捕らえられ、松前に護送されました。一方、翌年、高田屋嘉兵衛も国後島付近で、ロシア船に捕らえられ、これを契機に、1813年(文化10年)日ロ両国の間で、国境を決める交渉が始まりました。


■交渉は難行しましたが1855年(安政元年)に、「日魯通好条約」が結ばれ、日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決まりました。これにより、択捉島から南は日本の領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されました。また、樺太は今までどおり国境を決めず両国の混住の地と定められました。



(19世紀後半)

■1869年(明治2年)、政府は、札幌に開拓使を設け、北辺の開拓に当ることとし、蝦夷地を北海道と改称し、11カ国86郡を置き、各藩に支配させました。

国名

郡名

藩名等

千島国(国後島)

国後郡

秋田藩

千島国(択捉島)

択捉郡
紗那郡
振別郡
藥取郡

彦根藩
仙台藩
佐賀藩(後に仙台藩)
高知藩(後に仙台藩)

色丹島


増上寺(後に稲田邦植)


(明治4年には、廃藩置県により開拓使の直轄に移行。)

■政府は、樺太におけるロシアの南下に十分対応することができず、1875年(明治8年)「樺太千島交換条約」を結び、それまで、ロシア領であった得撫島以北の18島を譲り受けました。

■1880年(明治13年)には、新しい行政組織のもと、色丹、国後、択捉の3島に村役場が置かれました。

■明治20年代には、中心産業が狩猟から漁業へと移り、サケ、マス、かになどの北洋漁業へと、発展していきました。

■また、国後、択捉両島にも道路網が整備され、郵便局、駅逓も置かれました。さらに、島と北海道を結ぶ定期航路が開設され、電信も開通するなど、島民生活の安定が図られました。


(20世紀・終戦時まで)

■大正の終わりには、北方領土にも町村制が施行され、各島に村役場が置かれました。歯舞群島は歯舞村に属し、得撫島以北の島々は町村制が施行されず、根室支庁の直轄となっていました。
 各村に営林区署、水産物検査所、さけ・ます孵化場、郵便局、警察署、小学校などがあり、人口は昭和5年時点で、国後島で約8,300人、択捉島で約6,300人が住んでおり、大半が漁業を行っていました。

[1923年(大正12年)4月時点の町村]

島名

郡名

町村名

摘要

歯舞群島

花咲郡

歯舞村


色丹島

色丹郡

斜古丹村

昭和8年10月色丹村と改称。

国後島

国後郡

泊村
留夜別村


択捉島

択捉郡
紗那郡
藥取郡

留別村
紗那村
蕊取村



(千島列島の得撫郡、新知郡、占守郡は根室支庁の直轄区域。)

■1939年(昭和14年)北海道庁は、択捉島紗那村に千島調査所を設置し、所員74名で、北方の島々の全域の調査に着手し、開発のための基礎資料の収集に当りました。
 一方、国防上の要衡をなしていたことから、次第に軍事基地としても整備されることとなり、軍事的緊張の中で開発が進められました。



国境の取り決め

日露通好条約の際の国境線



日魯通好条約
1855年(安政元年)、伊豆下田において「日魯通好条約」が調印されました。 この条約で初めて日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決められ、 択捉島から南は日本の領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されたのです。 また、樺太は今までどおり国境を決めず、両国民の混住の地と定められました。

樺太千島交換条約の際の国境線



樺太千島交換条約
1875年(明治8年)、日本は、樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました。 この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つあげていますが、 列挙されている島は得撫島以北の18の島々であって、択捉島以南の北方四島は含まれていません。

ポーツマス条約の際の国境線



ポーツマス条約
1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました。

サンフランシスコ平和条約の際の国境線



サン・フランシスコ平和条約
1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。 この結果、日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権原及び請求権を放棄しました。 しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません。




返還要求運動

返還要求運動のはじまり

■北方領土の返還要求運動は、昭和20年12月1日、当時の根室町長、安藤石典が連合国最高司令官マッカーサー元帥に対し「択捉島以南の島々は、古くから日本の領土であり、これらの島々において、島民が安心して暮らせるよう措置してほしい。」旨の陳情書を提出したことに始まります。
 この陳情がきっかけになり、昭和21年には、島から引き揚げてきた人々と根室の人々が中心となり、「北海道附属島嶼復帰懇請委員会」がつくられました。
(写真・安藤石典)


「北方領土復帰期成同盟」の設立

■北方領土を失ったことは、豊かな漁場を失ったことを意味し、北海道の経済に与えた影響は大きなものでした。このため、函館市に「北方漁業開発期成同盟」、札幌市に「樺太千島返還懇請同盟」などがつくられ、運動の輪は次第に広がりました。しかし、各団体がそれぞれに運動を行っても、その力が弱いので、各団体や市町村が一つになり、国内外に強く訴えていくため、昭和25年11月、「千島及び歯舞諸島返還懇請同盟」が誕生しました。
 その後、昭和38年に
「北方領土復帰期成同盟」と改称し、政府や国会への陳情、道内外での住民大会、講演会、北方領土展などを開催し、領土返還への世論の盛り上げに努めています。


政府・国会の動き

■「日ソ共同宣言」締結後、東西冷戦が続くなか、昭和36年9月、ソ連のフルシチョフ首相が「北方領土問題は解決済み」と言明して以来、領土問題は進展しませんでした。
 しかし、昭和42年、日ソ定期協議の際のコスイギン提言を契機に、昭和43年3月には、衆参両院に「沖縄及び北方問題に対する特別委員会」が設置されました。

■政府では、昭和33年5月、総理府に特別地域連絡局が設置され南方地域と北方地域に関する事務が行われました。その後、昭和45年5月に、沖縄復帰に備えての諸対策及び北方地域における諸問題の解決促進のため、総理府の外局として、「沖縄・北方対策庁」が設置され、北方課において、北方地域に関する事務を専門に担うこととなりました。
 沖縄本土復帰後、北方地域における施策をより拡充する狙いで、総理府の機関として、昭和47年5月15日、「北方対策本部」が設置され、本部長には総理府総務長官が、副本部長には総理府総務副長官が充てられ、審議官等の専任職員が置かれました。
 その後、昭和59年7月1日の総務庁設置に伴い、同本部は総務庁の機関となりました。


■政府は、昭和55年「北方領土隣接地域安定振興対策等関係省庁連絡会議」を設置し、北方領土返還の一層の促進とともに、根室地域の振興及び民生の安定を図っています。
また、52年以来、都道府県における返還要求運動の一体的推進を目的として、「全国都道府県北方対策主管課長会議」を毎年開催しています。


北海道及び北海道議会の動き

■道議会では、昭和22年7月22日「歯舞諸島及び択捉島並びに国後島の日本領土返還に関する請願決議」を行い、これまで毎年のように「北方領土返還や北方領土問題等の解決促進に関する意見書」等を決議し、間断なく、政府及び国会などに強く要請してきています。

■43年3月には、「北方領土対策特別委員会」を設置し、領土の返還促進をはじめ、元居住者の援護対策などに積極的に取り組んでいます。さらに、全国の都府県議会に、「北方領土返還に関する決議や要望意見書」の議決を働きかけ、51年10月の東京都議会の決議をもって、全国47都道府県議会すべての決議を見るにいたりました。

■また、道では、昭和30年当時、日ソ平和条約締結交渉が開始され、領土問題解決の兆しが見え始めたことに伴い、返還実現の場合を考慮し、その受入対策を総合的に検討するため、昭和31年2月28日、総務部に「領土復帰北方漁業対策本部」を設置しました。
 設置時の「領対本部」の業務は、設置趣旨に照らし、返還された場合の地域復興計画策定のための基本となる諸資料の収集・整備に重点が置かれ、併せて、元居住者の実態調査、北方関係諸団体の育成・指導に当たることとされていました。
 当時の体制は、本部長のもとに庶務、企画、厚生、経済、水産、建設の6班が設置され、各班長及び班員は、各関係部課の兼務者を充て、専任職員は4名でした。
 その後、領土問題の情勢の変化に対応するため、体制も次第に強化され、昭和59年の機構改正で「北方領土対策本部」と改称、企画振興、厚生、経済、水産、建設の5班とし、また本部の事務を効率的に処理するため現在の組織の元になるものがつくられました。



北方領土問題の経過と現状


「日ソ共同宣言」とその後の動き

■北方領土問題は、ソ連軍が昭和20年8月から我が国固有の領土である択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島を不法に占拠したことにはじまります。
 
■昭和31年の日ソ共同宣言により国交が回復しました。本宣言では、平和条約締結後、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する旨規定され、両国の国会・最高会議で批准されました。    
 しかし、その後ソ連は姿勢を後退させ、日ソ間に領土問題は「存在しない」「解決済み」等と主張しました。

■その後も、日本政府は、総理大臣の訪ソや外交交渉の場で、ソ連へ働きかけるとともに、昭和56年に、2月7日を「北方領土の日」と定め、北方領土問題に対する国民の関心を高め、理解を深めるため、全国的に返還要求運動の盛り上げに取り組みました。
 また、「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律」(昭和57年法律第85号)に基づき、北方地域元居住者に対する援護措置や、北方領土隣接地域の振興等のために必要な特別の措置を講じてきています。


「東京宣言」での「法と正義の原則」の確認


東京宣言の際の日露首相の画像

  


■平成3年4月には、ゴルバチョフ大統領がソ連の元首として初めて来日し、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが確認され、平和条約締結作業を加速することの重要性が強調されました。
 また、日ソ間の平和条約締結問題が解決されるまでの間、北方四島在住ロシア人と我が国国民の相互理解の増進を図り、北方領土問題の解決に寄与することを目的として、我が国民の北方領土への訪問を旅券、査証なしで行うこと等を内容とする新しい枠組み(ビザなし交流)が作られ、平成4年4月から相互訪問が行われています。

■平成5年10月にはエリツィン大統領が来日し、『東京宣言』が署名され、「①領土問題を、北方四島の島名を列挙し、その帰属に関する問題であると位置づけ、②領土問題を歴史的、法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決して、平和条約を早期に締結する。」との明確な交渉指針が示されました。

東京宣言




「ボリス・リュウ外交」とクラスノヤルスク合意

■平成9年6月のデンバー・サミットの際には、橋本総理とエリツィン大統領の会談が行われ、非公式首脳会談を定期的に開催することに合意、同年7月橋本総理は経済同友会懇談会において、対露外交・新三原則『信頼・相互利益・長期的視点』を提唱し、ロシア側はこれを積極的に評価しました。


■同年11月東シベリアのクラスノヤルスクにおいて、「ネクタイなし」の橋本・エリツィン首脳会談が開催され「東京宣言に基づき、西暦2000年までに平和条約を締結するよう、お互いに全力を尽くす」との画期的な合意が達成されました。


■平成10年4月、静岡県伊東市川奈において、2回目の「ネクタイなし」の橋本・エリツィン首脳会談が開催され、「平和条約が東京宣言第2項に基づいて北方四島の帰属の問題を解決することを内容とし、21世紀に向けて日露の友好協力に関する原則などを盛り込むこととなるべきこと。」を確認しました。
 また、橋本総理からエリツィン大統領に対し、領土問題解決のための提案が行われました。

■平成10年5月のバーミンガム・サミットの際の日露首脳会談で、エリツィン大統領から、川奈での橋本総理の提案について検討中であり、その回答は秋に予定されている橋本総理の訪露の際に行いたいとの考えが示されました。



「信頼」から「合意」の時代へ

■平成10年11月11日~13日、小渕総理が日本の総理大臣として25年ぶりにロシアを公式訪問しました。
 「信頼」から「合意」の時代に入っていくという両国の決意が謳われている『モスクワ宣言』が署名され、東京宣言、クラスノヤルスク合意及び川奈合意に基づいて平和条約交渉を加速し、平和条約を二千年までに締結するよう全力を尽くすとの決意が再確認されました。さらに、平和条約締結に向けた国境画定委員会及び共同経済活動委員会の設置並びに元島民及びその家族による北方四島への自由訪問を実施していくことが合意されました。
 また、川奈での提案に対するロシア側の回答が示され、日本側としては、次の首脳会談までに回答することとしました。


■平成11年6月ケルン・サミットの際の日露首脳会談では、小渕総理からの「クラスノヤルスク合意を実現して、国境線を画定し、平和条約を結ぶという歴史的な仕事を大統領としたい。」との発言に対し、エリツィン大統領も賛意を示しました。


■政府は、2000年の早い時期でのエリツィン大統領の訪日による首脳会談を行うよう取り組んでいましたが、平成11年12月31日にエリツィン大統領が辞任し、プーチン首相が大統領代行となり、平成12年3月26日には、ロシア大統領選挙が行われ、プーチン大統領代行が当選しました。


■平成12年4月、サンクトぺテルブルグにおいて、森・プーチン非公式首脳会談が開催され、21世紀に向けた両国の協力のあり方等について、広範な意見交換が行われ、東京宣言、モスクワ宣言等一連の合意及び宣言を完全に遵守していくことが改めて確認されました。


平成12年9月、東京において、森・プーチン公式首脳会談が開催され、クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続すること、今日まで達成された全ての諸合意に依拠し、四島の帰属の問題を解決することにより、平和条約を策定するための交渉を継続することなどが確認されました。

平成13年3月、イルクーツクにおいて、森・プーチン非公式首脳会談が開催され、クラスノヤルスク合意の総括と平和条約問題に関する声明が署名され、今後両国内で更なる交渉を行うことで合意しました。
 また、日ソ共同宣言が平和条約交渉の出発点となる法的文書であることが、初めて文書により確認されました。

■平成13年10月、上海におけるAPECでの日露首脳会談では、双方が前提条件を付けずに歯舞・色丹の議論と国後・択捉の議論を同時にかつ並行的に進めていくことで概ね一致し、具体的な進め方については、外交当局間で更に詰めていくことで合意しました。

■平成151月、小泉総理とプーチン大統領の間で、「日露行動計画」を採択するとともに、北方四島の帰属の問題を解決することにより平和条約を可能な限り早期に締結し、両国関係を完全に正常化すべきという決意を確認しました。

■平成196月、日露首脳会談において、安倍総理、プーチン大統領の両首脳は2003年の「日露行動計画」の実施状況を確認し、多くの分野で順調に進展が見られるとの認識で一致しました。その上で、平和条約の締結交渉が「日露行動計画」の重要な柱の一つであることを確認し、今後、領土問題の解決に向けて平和条約交渉についても進展を図っていくことで一致しました。

 その後も日本政府は、引き続き、ロシアとの間で幅広い分野での協力を進めるとともに、これまでの諸合意及び諸文書に基づき北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を早期に締結するという一貫した方針の下、ロシア政府との交渉を精力的に行っています。


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