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ホーム > 総務部 > 北方領土対策根室地域本部 >  H28遺産事業「北方領土遺産セミナー」


最終更新日:2017年3月30日(木)

北方領土遺産発掘・継承事業報告会
次世代へ語り継ぐ北方領土遺産セミナー

 平成28年度事業のまとめとして、根室管内の住民を対象に、北方領土遺産・発掘継承事業でこれまで取り組んできた事業報告と調査している北方領土遺産に関する講演を行う北方領土遺産セミナーを開催しました。

次世代へ語り継ぐ北方領土遺産セミナー

 ●日時:平成29年3月12日(日) 13:00~
 ●場所:道立北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ) 

第1部 報告会 ~北方領土遺産事業の取組~

 セミナー写真1  第1部では、根室振興局職員から平成28年度の事業を中心に、これまで取り組んできた事業内容や調査結果を写真を用いて報告しました。調査結果の報告は、別海町郷土資料館、標津町ポー川史跡自然公園、旧逓信省千島回線陸揚庫保存会の協力のもと、会場にパネル展示や当時の資料などを展示して行いました。
 また、 来年度別海町郷土資料館との共催で実施する「北方領土遺産ツアー」の予告も行いました。

第2部 講演会 ~北方領土遺産から学ぶ 北方を支えたモノたち~

 第2部では、根室振興局が調査している北方領土遺産「根室市ハッタラ浜海底ケーブル陸揚庫」と「江戸時代末期に北方警備に当たった会津藩」を以前から調査・研究している2名の講師と1名の特別ゲストから講演いただきました。
 講演していただいた方は次のとおりです。

 【根室市ハッタラ浜海底ケーブル陸揚庫に関する講演】
  ●久保 浩昭氏(旧逓信省千島回線陸揚庫保存会会長・元島民2世)
  ●桜井 宏氏(国立大学法人三重大学地域イノベーション推進機構社会連携特任教授、前衆議院議員、
           元北見工業大学准教授、工学博士・特別ゲスト)
 【江戸時代末期に北方警備に当たった会津藩に関する講演】
  ●小野 哲也氏(標津町教育委員会管理課文化財保護担当係長)

セミナー写真2  久保 浩昭氏はお父さんが国後島の出身で、お父さんが子供の頃、国後島のケラムイ側にあった陸揚庫の周りで遊んでいたという話をよく聞かされていたことから興味を持ち始め、図書館に通い調査を始めたそうです。情報収集をしていくうちに、自分でも陸揚庫保存のために、何かしないといけないと思い、陸揚庫に関する小冊子を作成し、元島民の方や関係者の方に配付したそうです。この時に建物の保存をしていく活動を始められたそうです。また、当時使用されていた海底ケーブルをいくらか譲り受け、現代の電話をケーブルに繋いで会話できる簡単な模擬電話を作成し、色々な施設に寄贈し、陸揚庫等について伝える活動もされているそうです。
 久保氏は「この電線の先にいるのがロシア人だったらどうなるんだろうかということを想像しながら模擬電話を作っています。この電線でロシア人と対話しお互いが理解できれば、もっと良い方向に返還運動が進むのではないか、それが保存活動で私が一番中心に置いていることです。」とお話されました。 
セミナー写真3  桜井 宏氏はコンクリート建造物を専門としており、様々な施設の調査や保存に携わっています。北見工業大学での勤務時に、新聞記事で久保氏の活動を知り、 久保氏と共に陸揚庫の調査を行っています。
 調査を行った結果、1900年頃に建てられたものだろうということが考えられ、日本最古の鉄筋コンクリート構造物ではないかと桜井氏は考えています(※注)。
 桜井氏は、「建物が建てられたのは日露戦争の前。戦争前にインフラを整備しようという国の意思で建設されたものであるので、慎重に、しかも、しっかり作られた構造物ではないかと判断できます。その結果、現在まで保たれてきたのではないでしょうか。北方領土返還実現のために遺産的構造物として保存する意義があると思われます。」とお話されました。
(注:現在資料等で判明している日本最古の鉄筋コンクリート構造物は、京都市が管理している「琵琶湖疏水第11号橋」です。根室市の陸揚庫は根拠資料がないため建築年次を特定することはできませんが、もしかしたら日本最古の鉄筋コンクリート構造物かもしれません。)
セミナー写真4  小野 哲也氏には、幕末に北方の警備に当たった会津藩について講演いただきました。
 小野氏は、会津藩が北方防衛を行うことになった最初のきっかけは、1789年に起きたクナシリメナシの戦いで、その結果、この事件の背後にあるロシアの存在を江戸幕府が認識し、北海道(当時は蝦夷地と呼ばれていました。)を日本の一部に取り組もうという動きが活発化してきたと推測しています。この結果、会津藩は現在の標津町近辺を中心に防衛に当たることになりました。北海道は遠隔地であり、そこで防衛と開拓の任に当たることは財政的にもかなり厳しいもので悲観的であったと最近まで考えられていました。
 しかし、小野氏は調査をしていくうちにただ悲観的なだけではなかったということがわかってきたそうです。講演では、会津藩士の一人「南摩綱紀(なんまつなのり)」が詠んだ2首の歌が紹介され、派遣された際に詠んだ歌では、悲観的な印象を与えるような内容だったものが、派遣後には強い気概が伝わる歌を詠んでいます。実際に派遣されてみると豊かな水産資源や、木材資源があり、こうした豊かな資源を目の当たりにして新たな会津藩の将来像を見いだした「南摩」の昂ぶる感情が表れたものではないかと小野さんは推測しています。