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最終更新日:2015年3月13日(金)

北方領土の歴史


「北方領土ガイド:千島の歴史と北方領土の問題(制作:北海道総務部北方領土対策本部、制作協力:横澤英三氏(千島の歴史/別海町西春別中学校)」より抜粋

 千島の発見

 千島のことが日本に知られるようになったのは、今から300年以上前の江戸時代のことです。もともと千島には、アイヌの人々が住んでいました。北海道の松前藩の記録に、「1615年に北海道の東に住んでいるアイヌの人々が、ラッコなどを松前藩に納めた」とあります。ラッコは千島の近くの海でしかとれないので、この当時から松前藩と千島の交流があったことがわかります。さらに、松前藩は、1644年に家来の村松広儀(むらまつひろよし)に命じて、「正保御国絵図(しょうほうおくにえず)」という地図を作りました。この地図は、千島の島々を描いた世界で最も古いもので、松前藩が千島の島々を知っていたことがわかります。ロシア人が千島のことを知ったのは1697年のことです。この年、アトラゾフという人が、カムチャッカ半島で、クリール人から千島の島々のことを聞きました。
 ここでは以下、国後島、択捉島及びウルップ島から北のパラムシル島、シュムシュ島までの島々を「千島」と呼びます。

 千島の開発

 ロシア人が初めて千島の渡ったのは1711年でした。この年にロシアの兵士達がシュムシュ島に上陸し、2年後にはパラムシル島にも上陸しました。その後、千島には毛皮になる動物が多く住んでいることがわかり、1768年にはチョールヌイという人が千島列島を調査しながら南下し択捉島に上陸した後、ウルップ島でロシア人としてはじめて翌年まで越冬しました。そして、1795年にはウルップ島にロシア人約40人が移り住むようになりました。一方、日本人は厚岸(あっけし)を中心に千島と交易をしていきましたが、1754年に「国後場所(交易地)」が開かれ、千島との交易の中心がそちらに移るようになりました。このころから、日本はロシア人が千島に進出してきていることを知るようになりました。そこで、幕府は千島の守りを固めるため、1785年に千島に調査団を送りました。調査団の一人の最上徳内(もがみとくない)は翌年、択捉島とウルップ島へ渡り、択捉島にいたロシア人の話から千島でのロシア人の活動の様子などを知りました。しかし、1791年に最上が再び択捉島を訪れた時には、このロシア人はいませんでした。1800年には幕府の役人の近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)が、択捉島に「大日本恵登呂府(だいにほんえとろふ)」と書いた柱を建て、日本の領土であることを示しました。さらに、日本は1801年からは択捉島に役人を送り。東北地方の兵士に択捉島の守備を命じたり、漁場を開いたりしました。その後、日本とロシアの間に正式に国境が決まっていなかったために択捉島にあった日本人の村々が襲われるなどいろいろな問題が起きました。

 国境が決まる

日本とロシアの国境を表した図。以下にテキストによる説明があります。  日本とロシアの国境は、1855年に結ばれた「日魯通好条約(にちろつうこうじょうやく)」で択捉島とウルップ島の間と決められました。話し合いの中でロシアは「択捉島もロシアのものだ」と言いましたが、日本は「択捉島は日本が開拓して、日本人が住んでいるので日本のものだ」と主張して、日本の意見が認められました。この条約では、樺太(からふと)についても話し合われ、けっきょく樺太は国境をきめないでおくこととなりました。

日魯通好条約とは・・・
1855年(安政元年)2月7日、伊豆下田において結ばれた条約であり、択捉島とウルップ島の間に日露の国境が定められました。この時に、北方領土が日本に帰属していることが国際的に明確に認められました。この条約が調印された2月7日を「北方領土の日」と定めています。

 

 

 

 国境の変更

 しかし、樺太での日本人とロシア人の争いがたえなかったので、あらためて国境について話し合うこととなりました。そのころ、ロシアは樺太の開発にたいへん力を入れていたのですが、日本は樺太を開発するよゆうはあまりありませんでした。そのため、樺太の開発をするよりは北海道の開発に力を入れることにして、樺太をロシアの領土とするかわりに、千島のウルップ島からシュムシュ島までを日本の領土とする条約を結びました。この条約は1875年結ばれ、「樺太千島交換条約(からふとちしまこうかんじょうやく)」と言います。その後、1904年に日本とロシアがともに朝鮮を自分のものとしようとしたことから対立して、日露戦争が起こりました。1905年、戦争は終わり、日本とロシアの間で「ポーツマス条約」が結ばれました。この条約によって、日本はロシアから、樺太の南半分をゆずりうけました。

樺太千島交換条約とは・・・
1875年(明治8年)、日本はそれまでの日露混住の地とされていた樺太を放棄する代わりにウルップ島より北の「千島列島」をロシアから譲り受けました。
 この条約には「千島列島」として、ウルップ島からシュムシュ島までの18の島の名前が列挙されており、北方領土が「千島列島」に含まれないことが明らかにされています。

ポーツマス条約とは・・・
1905年(明治38年)、日露戦争の講和条約として締結されたこの条約で、南樺太(樺太の北緯50度から南)が日本の領土となりました。
 千島列島及び北方領土は、日露戦争の結果により日本の領土になったと誤解されている方もいるようですが、日露戦争の影響を受けず、これまでどおり日本の領土のままです。

条約による日本とロシアの国境の変化を表した図。直前にテキストによる説明があります。 

 第二次世界大戦

 ロシアでは1917年にロシア皇帝が倒され、ソビエト連邦(ソ連)が誕生しました。日本は勢力を広げるため、サハリン北部やシベリアなどに出兵しました。さらに、日本は中国において利益を得るために1931年には中国と、1941年にはアメリカ、イギリスなどと戦争を始めました。初めのうちは、日本が有利に戦いを進めましたが、しだいに不利になってきました。1943年、日本との戦争を早く終わらせるために、中国・アメリカ・イギリスの代表が「カイロ宣言」を発表しました。その中には、「中国・アメリカ・イギリスは自分の国の領土を広げるために戦争するのではない」ということと、「日本は暴力によってうばった地域を返さなければならない」ということが書かれていました。日本とソ連は、1941年に「日ソ中立条約」を結び、日本とソ連が直接戦争をしないという約束をしていました。しかし、1945年にアメリカとイギリスは、日本を降伏させるには、ソ連が日本と戦争に参加することが必要と考え、ソ連が日本と戦争を始めたら、樺太の南半分が返還されること、千島列島が引き渡されることをソ連に約束しました。この約束を「ヤルタ協定」といいます。そして、ソ連はこの約束にしたがって、「日ソ中立条約」をやぶり1945年8月9日に日本と戦争を始めました。原爆の投下とソ連の参戦により、日本は、1945年8月15日、「ポツダム宣言」を受け入れ無条件降伏しました。「ポツダム宣言」というのは、アメリカ・中国・イギリスが発表したもので、ソ連も日本と戦争を始めたときに、この宣言に参加しています。この「ポツダム宣言」には、「カイロ宣言で発表したことは守られること」「日本の領土は連合国の決めるいくつかの島々に限られること」などが書かれています。  

 奪われた島々

 日本が降伏してから3日後の8月18日、ソ連はとつぜんシュムシュ島への攻撃を開始し、次々と千島の島々に上陸しました。そして、9月5日までに千島の島々と歯舞群島、色丹島はすべてソ連に占領されました。その当時、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島には約1万7千人の日本人が住んでいましたが、ソ連の命令で1948年までに日本へ強制的に引きあげさせられてしまいました。日本ではこれらの元島民を中心に、戦後すぐに返還要求運動が始まりました。

 サンフランシスコ平和条約

日本とロシアの国境を表した図。南樺太と千島列島が国際法上の帰属未確定領域となっている。

 1951年、日本と第二次世界大戦で戦った国々との平和を回復するため会議が開かれ、「サンフランシスコ平和条約」が日本と48カ国の国の間で結ばれました。日本はこの条約で「千島列島と樺太の南半分に対するすべての権利、権原、請求権を放棄する」ことを認めました。この会議の中でソ連は「千島列島はソ連のものにする」というふうに変えるべきだと言いましたが認められず、結局日本と条約を結びませんでした。また、この条約を締結した同じ日に、日本の安全保障のためアメリカ軍の日本駐留を定めた日米安全保障条約が調印されました。

 

 

 

 

  

 日ソ共同宣言

 日本はその後、ソ連と平和条約を結ぶため努力してきました。1956年に日本とソ連は「日ソ共同宣言」を発表し、国交を再開しました。その中で「平和条約を結んだあとで歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す。」という約束がされました。しかし、1960年に日本が日米安全保障条約を改定するとソ連は「日本からアメリカ軍が出ていかなければ歯舞群島と色丹島は返さない。」と態度を変えました。その後、ソ連がロシアになってからも日本は平和条約を結ぶために話し合いを続けていますが、領土の問題が大きな障害となって、今も結ばれていません。

 北方領土の問題

 日本は択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島をほかの千島とはっきり区別して「北方領土」と呼び、ロシアに対して返還を求めていますが、ロシアがそれを拒否してきました。ロシアは「ロシアが最初に千島を発見し開拓した。」、「これらの島々はヤルタ協定でロシアに引き渡されることとなっている。」、「日本がサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には国後島と択捉島も当然含まれている。」などといって、一方的に自分の領土としてきました。しかし、日本の政府は「北方領土は1855年に日露通交条約で国境が決められてからずっと日本の領土である。」、「ロシアは自分の国の領土を広げるために戦争をするのではないというカイロ宣言に違反して千島を占領している。」、「サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島にはもともと日本の領土である北方領土は含まれない。」と考えて、ロシアとの話し合いを続けています。北方領土を返還してもらうということは、国と国とのむずかしい問題です。国民ひとりひとりがこの問題について、正しく理解し、日本の立場をねばり強く主張していくことが非常に大切です。