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最終更新日:2019年4月10日(水)


北の生活文化(北海道の名物・郷土料理 )




北海道の名物・郷土料理
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62. 三平汁

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63. 味噌ラーメン 64. 開拓使札幌麦酒醸造所
 北海道の郷土料理には、三平汁、ニシン漬け、飯ずしなどの和食系と、バター、チーズ、ハム、ソーセージなどの洋食系がある。和食系の料理は東北や北陸地方の料理法を基礎に、近世の松前地やニシン漁場で成立した。一方、洋食系の料理は、明治初期に開拓使が積極的に導入したものだ。寒冷な北海道での稲作をあきらめ、パンや肉を中心とする洋食こそ北方生活に適していると判断したためだ。ただし、洋食が一般に広まったのは大正7年(1918)、北海道博覧会のころだった。

 昭和に入ると、30年代の工業の発展、輸出産業の進展に伴い、生活が再び大きく変化した。食生活ではインスタントラーメンや即席のカレールーの登場が目を引く。北海道では昭和40年(1965)、札幌のすすきのにラーメン横丁ができ、札幌ラーメンが全国的に有名になった。戦前は普及しなかったジンギスカン鍋も人気となり、羊肉の供給が間に合わず、ニュージーランドやオーストラリアから輸入するようになったのもこのころだ。

 このほか現代の北海道を代表する味覚には、日本初のドイツ式ビール工場「開拓使札幌麦酒醸造所」を礎とする「サッポロビール」や、夏の札幌大通公園の名物トウキビ(トウモロコシ)、冬はカニのシーズンとあって三大ガニといわれる毛ガニ、ズワイガニ、タラバガニが本州に送られることも多い。

アイヌの人々の住まい
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65. 復元されたカヤ葺きの家屋 66. 模様のついたござを張った室内
 アイヌ語で家屋をチセという。チセの場所は、日々の活動の便を考えたが、特に洪水や風当たり、寒冷期に備えて注意が払われた。さらにその場所がカムイ(神々)の意に反していないか、カムイへの相談も重要であり、場所が決まると神への儀式が怠りなく行われた。

 チセの建築は、屋根の組み立て作業から始まり、それに合わせて柱を立てた。家枠ができるとササや樹皮、アシやカヤなどで屋根や外壁を葺(ふ)いた。室内ではいつも火をたいたため、燻蒸(くんじょう)作用によりチセの耐久年数が伸び、20~30年またはそれ以上のものもあった。

 チセは一部屋の母屋に、出入り口と物置を兼ねた小屋を付属したものが基本的で、これにヌサ(祭壇)、倉庫、トイレなどを戸外に設置した。室内では炉の位置が最も考慮された。炉は火の神の住む所であり、悪い霊魂に汚されていない場所に作らねばならなかった。チセの奥には神々が出入りする窓「ロルンプヤ」が、川の上流の方など位の高い神々が住むとされる方向に設けられた。チセの左奥には、その家の宝物である漆器類などと共に、その家を守る神「チセコカムイ」を置く場所があった。

 なお、ここ100年ほどの間にアイヌの人々の住まいも大きく変化し、現在、このような家屋に住む人はいない。

漁村に見られる和人の住まい
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67. 旧花田家番屋(小平町鬼鹿、国重要文化財) 68. 笹波家住宅(上ノ国町、国重要文化財)
 近世から近代にかけて北海道の住まい文化でユニークな展開を見せたのは漁村だ。松前藩時代から北海道の基幹産業だったニシン漁業は、明治期に全盛期を迎え、昭和30年(1955)を境にニシンが姿を消すまで、短期大量漁獲が繰り返された。そのため若い衆と呼ばれた漁業労働者も大勢集められたが、「番屋建築」はその若い衆を集団で収容するための建物であり、一部に近代的な洋風の手法を取り込みながら造られた、豪放で機能性に徹した独特の建築形式だ。大型の定置網(建網)を使う漁法が確立した幕末か明治初期の積丹半島のあたりが発祥の地と推測される。

 「番屋」は本来、冬に人の引き上げた後、漁場を管理する必要から越年して滞在するための番小屋をいう。これがのちに漁夫の寝泊りする漁場施設を指していうようになり、漁船や網を持って多くの漁夫を使う親方の住まいでも漁夫の宿泊部を一棟の中に収めるものは「番屋」と呼ばれた。

 国の重要文化財に指定される小平町鬼鹿の「花田家番屋」は明治38年(1905)ころの「番屋建築」の典型で、道内に現存するものでは最大規模を誇る建物として有名だ。ニシン漁の時期(3月上旬~5月)には、120~130人もの漁夫がここで寝起きしていたという。

開拓期以降の住まいの系譜
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69. ロシア風屯田兵屋 70. 北海道の住宅の居間
 開拓期の農村の住まいに、屯田兵の住宅「屯田兵屋」がある。当時、支給された兵屋は炉が一つで、初めて北海道で冬を越す屯田兵には厳しいものだった。そのため炉の増設願いを申し出る者が多く、続いて煙突やガラス窓の設置など改造が繰り返された。

 大正、昭和期の住まいとしては、札幌農学校出身の農業技術者やヨーロッパやアメリカで営農留学を経験してきた人々の斬新な洋風住宅で、生活様式までも意識的に洋風化されたモダン住宅が目を引く。近代住宅の分野で農家住宅が注目されるのも北海道ならではだ。

 鉄の町・室蘭や紙の町・苫小牧には、巨大企業に付設された大規模社宅街が存在した。今の住宅団地の元祖ともいえる。明治後期に建設された王子製紙苫小牧工場の社宅街には、食堂や病院、娯楽場もあったが、役職社員と一般社員の住宅を地区的に分離する身分職階制の強いものだった。当時、この傾向はほかの社宅街にも見られた。

 戦後復興期の昭和20年代から、官を中心とする住宅改善指導で本格的な寒地住宅が実現した。そこには二重窓や厚い断熱材の採用、縁側の排除、暖房効率を上げるため主暖房室となる居間を大きくし、その周りに小さな部屋を集め、廊下などの通路を少なくするなど、現代の北海道住宅の基本形が見られる。

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