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最終更新日:2019年4月10日(水)


北の生活文化(アイヌ社会の崩壊と復権運動)




アイヌ社会の崩壊と復権運動
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8. スミソニアン博物館の「アイヌ特別展」にて・平成11年 9. 毎年、英傑シャクシャインの法要祭が行われる(静内町)
 明治2年(1869)、明治政府は蝦夷地の開拓事業に着手した。島の名は北海道と改められるが、これは政府が異民族の居住地として特別扱いにしてきた蝦夷地を名実とともに日本国家の領土に編入し、島の住民であるアイヌの人々を国家の構成員として直接支配することを意味していた。

 領土をめぐりロシアと緊張関係が続く中、政府は富国強兵・殖産興業のスローガンを掲げて北海道の開拓政策を推し進めた。その一方で、江戸時代から続くアイヌ民族の同化政策は一層強化され、アイヌ社会の崩壊は決定的となる。

 同化政策の代表的な法律に、明治32年(1899)制定の「北海道旧土人保護法」がある。これはアイヌの狩猟・漁労を制限する代わりに農業を激励し、学校教育のよって和風化を図るものであり、生活基盤を失ったアイヌの人々はひどく困窮していった。

 アイヌの人々への同化政策は長い間続くが、大正末期に入ると、アイヌの人々の間で現状に対する批判が高まり始めた。民族としての自覚が強まり、昭和21年(1946)には北海道アイヌ協会(現・北海道ウタリ協会)を結成。その後は、世界の先住民族との交流、連帯を深めながら前述の保護法撤廃と、アイヌの権利回復を求める運動を展開してきた。そして、平成9年(1997)に、いわゆるアイヌ文化振興法が制定されるに至った。

※アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律

移住の旅

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10. 函館港・明治9年
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11. 幌内鉄道・明治中期 12. 小樽停車場に集合した移民・明治後期
 近世から明治初期にかけて、本州から蝦夷地・北海道への旅は、帆船が重要な交通手段だった。特に大坂(現・大阪)・瀬戸内海・北陸および奥羽諸港から松前・江差・箱館間を連絡した北前船(きたまえぶね)の活躍が目立つ。海運は不定期で、海難事故も多く、旅行者は津軽、青森まで陸路を利用し、そこから船で松前・江差・箱館などに渡ることが多かった。道内では、船または陸路を徒歩や馬で北上し、川では丸木舟を用いるのが一般的だった。

 明治6年(1873)に札幌―函館間を結ぶ幹線道路(札幌本道)が開通した。しかし、内陸部の本格的な道路建設が始まるのは明治19年以降であり、その道路も雪どけ、大雨、積雪などで交通が途絶えることが多かった。開拓使は明治初期にロシアから職工を雇い、ロシア型馬橇(ばそり)を製作して直営の運送事業を試みるが、馬橇が普及したのは明治後期以降からだ。

 北海道初の鉄道は、アメリカ人技術者クロフォードの指導の下、明治15年に手宮―幌内間(小樽―三笠市内)に開通したアメリカ式の幌内鉄道である。明治末期から大正期にかけて、北は稚内から東は根室まで延び、内陸部も主要路線がほぼ開通する。このころには最寄りの駅から青森まで鉄道、函館まで青函連絡船で渡り、そこから鉄道に乗り換え、最後は徒歩で開拓地に到着するというのが普通になっていた。

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