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最終更新日:2006年2月17日(金)


北の生活文化(中世から近世のアイヌの人々 )


ダイジェスト・北の生活文化


第1章/北海道民のなりたち

 北海道は、長い間この地で生活し、特色ある社会・文化を築いてきた先住民族であるアイヌの人々と、13世紀以降移住してきた和人が切り開いた土地である。和人の移住は明治期に本格化し、開拓が急速に進展したが、その一方で、アイヌ民族に対して同化政策が取られ、伝統的社会・文化が失われた。

中世から近世のアイヌの人々

 北海道に初めて人類が姿を現すのは旧石器時代の約2万年前である。本州では紀元前3世紀ころ、農耕社会が成立したが、気象の厳しい北海道では、狩猟、漁労、植物採集、原始的農耕を基盤とする社会が長く続いた。

 北海道の先住民族であるアイヌの文化の原型が形成され、民族的なまとまりが強まるのは、日本の中世(鎌倉・室町・戦国時代)である。この時代に本州から北海道南部に和人が進出し、和人との交易が盛んになり、アイヌ民族の暮らしに大きな変化をもたらした。

 15世紀後半、和人の活動領域が広まると、両者間の対立が激化し、この状態が約1世紀の間続いた。この抗争を平定したのが蠣崎(かきざき)氏(のちの松前氏)で、17世紀初めに成立した松前藩は、アイヌ民族との交易権を独占するに至った。藩はアイヌと和人の移住地を分割(蝦夷地と和人地)して両者間の往来と交易を厳しく制限し、やがて不当な価格による交易を強制するに至った。

 寛文9年(1669)、アイヌ側はついにその不満を爆発させ、ジブチャリ(現・静内町)の首長シャクシャインの指導の下に決起した(シャクシャイン戦争)が、藩の謀略により敗北に終わった。18世紀になると、蝦夷地での交易や、漁場の経営を和人の特権商人が請け負うようになり、アイヌ民族への支配は一層強まり、伝統的な社会や文化は著しく変化した。

和人地の発達
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3. 鯡(にしん)漁図 4. 会所での交易
 16世紀半ば、北海道に初めて和人の移住地域(和人地)が定められた。それ以前は、日本の中世国家にとって支配領域外の地であり、流刑地でもあった。和人地は、東は志利内(現・知内町内)(しりうち)から西は上之国(現・上ノ国町内)(かみのくに)の天の川までとされたが、当初は和人地にもアイヌの人々が多く住んでいた。和人地の範囲は、その後拡大の一途をたどり、幕末には渡島半島のほぼ全域を占めるようになる。和人地の中心地・福山(現・松前町内)は、松前藩の居城があり、城下町としてだけでなく江差や箱館(現・函館)と共に交易の拠点として栄えた。

 松前などの住民の多くは、食料や日用品の大部分を旅人である商人に依存し、サケ・マス・ニシン・コンブ、さらに長崎俵物と称して中国にも輸出された干しアワビ・イリコなどの生産に従事し、商人に納めて生計を立てた。

 18世紀に入ると、和人地のサケの漁獲高が減少し、18世紀末にはニシン漁業が不振に陥った。このころから和人地から蝦夷地へ出稼ぎにいく漁民が増加する。その後、農業・手工業はあまり発達せず、北海道の産業は、19世紀末までニシン漁業を中心に進展した。

 幕末期の蝦夷地の人口は、アイヌ(樺太を含めて)1万7千人弱に対し、和人は6万人を超えていた。

近代の北海道移民

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5. 山梨県水害罹災移民・明治42年(真狩村) 6. 北海道移住手引草・明治44年
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7. 開拓史札幌本庁舎
 松前藩時代は、北海道沿岸への漁業移民が中心であり、内陸部の開拓は遅れていた。明治2年(1869)に設置された開拓史は、北海道の防備と開拓を進めるため、渡航費・食料などを支給する保護移民政策を採用した。その典型的な事例が、兵士と開拓民を兼ねた屯田兵制度である。

 明治19年(1886)に設置された北海道庁は、これまでの保護移民政策をやめ、本州資本の投資による開拓を意図した。そのために殖民地の選定事業を始め、国有未開地の大面積払い下げを可能とするような規則の改正も行った。これによって、本州の地主・華族・政商などによる投資が活発化し、本州からの移住者も急増した。

 明治30年代から大正時代前期にかけて、北海道への移住者は毎年5万人から8万人を数え、内陸部の開拓が急激に進んだ。「開道50年」にあたる大正7年(1918)の全道人口は約217万人、耕地面積は80万ヘクタールとなった。これら移住者の多くは東北・北陸地方の出身者だったが、初期には四国地方からの移住者も多く見られ、日本各地の伝統的文化を北海道にもたらした。

 その後、移住者は次第に減少していくが、大正末期には、許可移民という形の保護移民制度が復活し、根釧原野(こんせんげんや)などの開拓にあたった。なお、明治2年から昭和11年(1936)までの北海道への移住者総数は約300万人であった。

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