Ⅹ 被災地域の声
(この章は「北海道南西沖地震」及び「北海道有珠山噴火」の支援にあたった方の御協力で作られたものです。)
 
1 北海道南西沖地震 
 
(1)南西沖地震の概要
 奥尻町は人口約4000人。面積142.98㎞の離島であり、漁業と観光を主幹産業として、
ウニの漁期にあたる夏が最も来島者が多い地域である。
 平成5年7月12日午後10時17分。北海道南西沖で震源の深さは34㎞、マグニチュード7.8の地震が発生した。震源域は奥尻島を含むとされ、この地震だけで各地に地殻変動や陥没、建物の倒壊、田畑や道路など各地で大きな被害をもたらした。
 この地震発生から2~3分後に津波が来襲し、島の北端部の稲穂地区、南端部の初松前、青苗地区、西海岸の藻内地区の集落が壊滅状態となる被害をもたらした。津波の高さは29~31mと言われ、198名の人命が失われた。
 再起には多大な時間がかかると言われたが、平成10年3月には完全復興を宣言した。
 
(2)被災者懇談会の開催
 ハンドブックを作成するにあたり、こころのケア活動に関する被災者の意見を聞くことを目的に懇談会を開催した。   
 ○ 日 時  平成17年3月3日 午後4時~午後6時
 ○ 出席者  当時保健福祉医療分野で災害対策に関与した奥尻町役場職員  5名
 ○ テーマ  災害対策を早期・中長期・統合期に分け次のことを自由に話し合った。
 ①災害に遭って印象に残った状況や出来事をお話ください
 ②救援対応の中で有効だったこと
 ③今思うと不足していたもの
 ④こころのケア活動についてのご意見
 
(3)懇談会内容
①災害直後から平常に戻るまでで印象深かったこと

★当時福祉課にいた。地震発生後10分以内に役場に着いた。人命救助が第1だった。
高台に逃げたまま「降りてこい」と言っても降りられない人がいた。怖かったんだ。高台は海から離れているのに2日後にやっと降りてきた。呆然と震えていた。
★母子センターが事務所だった。地震の時は近所の人とそこに避難し、近くの病院も手伝っていた。事務所からはどこにも連絡がとれなかった。朝になって、役場に行くと松江地区に行けと言われ、看護婦さんと行こうとしたが、道路が通れなかった。漁船で行ったけど海は残骸でつけず磯舟で渡った。青苗地区は煙が立っていて本当に戦場のようだった。怪我人の手当をした。何をしたらよいか分からず、次々上がってくる遺体の処置をしていた。見知っているだけに被災者に何も聞ない、話せない状態だった。3日目に保健所の保健婦がきてやっと避難所回りが始まった。やっと動けたという感じでした。
★救援物資を持っていったとき、不安定で震えている人や呆然として何を話しても分からない人が多かった。話しかけても受け入れてくれない。時間が経つしかない・・と

 

★ 出張で札幌にいたんです。夜テレビを見ていたら奥尻が燃えているって。すぐ帰らなければ・・と思ったけれど行けないんです。丘珠空港から自衛隊のヘリが飛んでいると聞いて「奥尻の病院の看護婦です。乗せてください」と頼んだんです。朝方ですね飛んだのは。途中ヘリから見たんですが、どこか分からない。青苗なんか家も無かった。空港ロビーで「怪我しているから診てくれ」と言われ、空港にあった医薬品で応急処置をした。青苗診療所が燃えているなど知らなかったから「青苗診療所の看護婦どうしたの」って口走った様な気がする。そのころ自衛隊の医療チームが入ってきた。
病院に帰って来たのは午後かな。忘れていますが入院患者さんも無事でした。その後は遺体の処理と怪我人の手当でした。来る人と「良かったね」「大変だったね」と言って。
★避難所で落ち着いてくるとエゴがでる。我が儘になる。自分のエリアを段ボール等で固めてしまう。1人がやるとみんなやる。人間の本質がでるもんだと思った。

 

②対応の中で有効だったこと

★いかに気持ちを落ち着かせるか、安心させるかなどソフトが大事だと思う。「大変だったね。頑張りなさい。」と言われるとグッとくる。「貴方の家はここに決まったよ」というと安心する。自分の落ち着くところが決まることが重要だったと思う。
★花があるとかペットがいると気持ちが和む。救援物資で1番評判が良かったのが花でした。こころが安らぐ・・ってね。初めて笑顔を見た感じがした。アマリリスだった。
★仮設住宅の入所の時は、仲良しグループがいいだろうと思い希望を聞いた。また、高齢者ばかりだと動きが鈍く、理解も弱くなる。集落に動きのよい人も必要なので、若い人を入れたり地域を作った。
★救援物資の配布を均等にするようにした。被災者同士で話をして、自分のところに物資がきていないと思うと取り残された気がするようだ。
★誰が亡くなったかとか行方不明だとかの情報を持っていても、避難場所に行って何も話せない。その人をよく知っているだけに言葉がかけられない。手を取って共に泣くだけだった。保健所の保健婦がきて少し距離を置いて話してくれたのがとても良かった。

 

③今思うと不足していたことや、あったらよいと思うこと

★避難所は体育館で何十人も入った。プライバシーもなくストレスが大きかった。今思うとこちらは大変だが、避難所を多くしたり、学校の教室を使うなど世帯数を少なく入れる方策をとるべきかと思う。
★半月くらい経ったら、いつも被災者でいるのではなく、避難所の手伝いをするなど、役場職員だけでなく仕事を分担してやってもらうことを考えたほうが良いと思う。
★マスコミの人も人命救助を第一にしてほしい。報道機関のヘリコプターは急患を乗せてほしいと言っても記者を降ろして飛び立った。空港で亡くなった人もいる。報道が仕事かもしれないが災害時はもっと命の重さを考えて・・そんなシステムがほしい。

 

★行政は縦割り。救援物資を運ぶ巡視船は物資優先。災害2日後に何百人も江差に家族が集まって乗せてくれと言っても物資だけと言う。役場で交渉して乗せたけれど、しけて奥尻港につかない。磯舟で入れたのに使おうとしない。物資は降ろした。現地にあった総合的な判断ができるように対策はしてほしい。
★災害が多い。うちは恵まれているが神戸などや新潟を聞くと大変だ。国がある程度は補償してくれるが基準がある。救援金等で災害基金を作って、日本中で起きたどんな災害にも使える基金があれば安心できる。

 

④こころのケア活動への意見

★災害当初、初期行動として、どっとマンパワーをいれて支援する。その後は少人数で長くやってほしい。
★こころのケア活動の対象は被災者で、人的被害や家屋、財産等の被害を受けた人になる。しかし、地震なんかでは地形も変わり、街も変わる。奥尻本島でも大きな被災に遭っていない人もいるが、地縁者をなくした痛みは大きい。その人たちも入れてほしい。
★精神科医や大学の先生たちはアンケートを取って、40%の人は5年くらいは引きずるという。スマトラの映像を見るとフードバックするだろうと・・。でも人間はそうではないだろう。人間は喜怒哀楽があり、24時間悲しんではいない。年に1度墓参りをすると思い出すが供養という言葉に変わってゆく。アンケートで思い出すかと聞かれると○をつけるが、それが引きずることではない。それを知ってほしい。
★こころのケア活動では、死亡した人の家族に会うと思う。そのとき年齢や男女差、家族の誰かを考えてほしい。母と子の違いもある。子どもが1人でも生きていれば母は強い。妻が残ると強いが逆だと立ち直れない。また、世間の目は女性に同情するが男にはいかない。そんなことも考えて声をかけてもらいたい。
★こころのことだけではなく、他の病気のことや家族のことなんかかも聞いてくれると人間的な関わりができる。特に仮設住宅に行ったときは聞いてほしい。
★2~3人でこころのケア活動に行くときは、その人の顔見知りの人がくると安心する
★「頑張りな」と言わないで。がんばれない。聞いていてほしい
★私は、3年経つと何とかなると思う。それまで見守っていてくれるとありがたい。

 

⑤援助者へのこころのケアについて

★職員のこころのケアをしてほしい。住民はどうしようもない気持ちや不満を役場職員
にぶつける。職員は受け止めるしかない。吐き出し口がない。第3者が聞いてくれると気
持ちが軽くなる。
★一番精神的に大変なのは死体を扱う人。寝ないで棺桶を作った。自分も兄弟を亡くして
いるのに行けなくて、自殺した人がいないのが不思議です。
★不眠不休で働いて、止まると動かなくなる。集まって酒を隠れて飲んで地震の話をして、
解消したんだろうか。休める環境作りをしてほしい。


2 北海道有珠山噴火
 
(1)有珠山噴火の概要
 虻田町は北海道の南部に位置し、伊達市、壮瞥町、豊浦町に接している。洞爺湖と有珠山、噴火湾に囲まれ北海道の湘南地方と呼ばれ、道内有数の観光地である。  
 平成12年3月31日 午後1時10分頃有珠山が噴火した。23年ぶりの噴火で噴煙は2700mにも達した。火口は30カ所に増え、噴煙は複数の火口から交互に噴き上げ、水蒸気爆発による白い噴煙と、噴石を含む黒い噴煙が混じり、灰色の雲になっていた。
 これにより1万6,000人が避難をしたが特に虻田町は市街地にまで断層や地溝が広がり
全町民避難となった。洞爺湖温泉街は火山灰に覆われ、避難は4ヶ月に及んだが、噴火のおさまりとともに温泉ホテルも営業を再開した。火口を間近に見ることができる遊歩道や火山科学館もできた。新たな観光地として復興が進んでいる。
 
(2)被災者懇談会の開催
 ○ 日 時  平成17年3月2日 午後1時~午後3時
 ○ 出席者  当時保健福祉医療分野で災害対策に関与した虻田町役場職員  6名  ○ テーマ  奥尻町と同じ
 
(3)懇談会内容
①災害直後から平常に戻るまでで印象深かったこと

★噴火が予測されていたので洞爺湖温泉街の人から噴火前に避難をしてもらっていた。高齢者から避難を始め保健婦が担当していたが、だんだん噴火がひどくなり人が増えてきた。
避難場所が次々に変わった。避難所に行ったら救援物資を分けている喧噪の中で、散歩の時間といって年寄りが連れ立って歩いている。不思議な光景だった。中にはどんちゃん騒ぎをしている人もいた。何かみんな興奮していた。
★虻田と豊浦は同じ経済圏だったが、長万部は知らない街。みんなどこに連れて行かれるのだろうと不安だった。みんな疲れた顔でバスに乗った。でも、長万部は街をあげて対応してくれた。本当に嬉しかった。女性は風呂に入れたのが良かった。風呂は大事だ。
★ 私は小さな避難所で虚弱な人を担当していた。身体を悪くしたり救急車で運んだりしていたが、急にその近くで噴火してみんな自衛隊のヘリで避難となった。どこに行くのか分からず、ヘリに乗ることも不安で、いろいろあって何を話したらよいか。ヘリに乗るときのお年寄りの後ろ姿が不安でいっぱいだったのが目に焼き付いています。
★長万部に行った人たちが保健婦が来てほしいと言ってきた。そこにはたくさん来ているけど虻田町の保健婦がいないと心細い。顔を見れば安心すると言われて嬉しかった。
★今回は予想されていたので、住民は覚悟していたし、前のことを知っている人も多かったので、こんなになるなんて・・という想いです。前は山頂噴火だったので結構早く帰った。だから今度もせいぜい1ヶ月くらいの気持ち。でも山麓噴火で国道にも火口が開いた。みんなの顔が険しく変わってきたのが忘れられない。

 

②対応の中で有効だったこと

★避難所でのあったことを町で新聞にしてくれた。たわいのない子どもの話なんか書いてあって楽しみだった。特に老人に喜ばれた。
★避難所ですぐ自治会ができた。大声で話しても聞かないので、少人数にして伝えてもらった。責任者を作った方が通りが良かった。自然と規律もできたし、自分たちで意志統一しようとしてくれた。役場も係にこだわらず、できることはすぐしようとしたことが住民と話し合いの進んだことだと思う。
★長万部は温泉があり助かった。男は気にしないが、女性は着替えるところが必要だった。これもストレスなんだと思った。
★周囲に迷惑をかけそうな人を早く見つけて、少し落ち着いたところに住んでもらった。高齢者とか眠れない人には、いびき、子どもにも気をつけて受け皿づくりをした。
★一番信頼されていたのは役場の広報誌。避難情報が住民向けだからみんな頼りにしていた。新聞やテレビはあまり信用されていない。ひどいところしか撮さないから
★情報をきちんと教えてもらうことが安心感につながる。私はそれまで新聞やテレビはちゃんと取材するんだと思っていたけれど、違うことが分かった。正しい情報を出してほしい。
★介護保険のスタートの年だった。介護支援専門員が高齢者の情報を持っていたので、虚弱の人へ対応が早かった。避難先もすぐ分かりどこでもサービスが受けられたので良かった。老健施設も優先的に入所させてくれた。デイサービスや透析患者なども伊達に住宅を借りて避難ができた。
★仮設住宅に障害者用を建てた
★仮設住宅入所の時は孤立しないように希望を聞いたり、仲間と入ってもらった
★1度長屋生活をすると、そのコミュニティから離れて一般住宅に入った場合に孤独感が高まると言われたので、訪問するなど注意して対応した。
★仮設から復興住宅に移った人には保健婦が訪問した。中にはうつ状態になっている人もいたが、保健婦の車がきていると安心するともいわれた。
★ボランティアで声かけ訪問をしてくれた人がいて、今もしてくれている

 

③今思うと不足していたことや、あったらよいと思うこと

★仮設住宅を建てたとき、単身高齢者のグループホームを建てると、助け合ったり話ができたと思う。遅くなって1個建てたが入居者がいなかった。
★公営住宅に移るときに、仮設の仲間で同じところに移れればよかったができなかった。福祉と住宅の話が上手くいかなかった。
★マスコミの情報は正しい情報を流してほしい。また、災害チャンネルを作ったり、字幕情報も流してほしい。

 
 
④こころのケア活動への意見

★こころのケア班は入る時期(タイミング)があると思う。少し落ち着いてからでないと受け入れられないかもしれない。
★精神保健福祉センターで支援者への支援として、保育士や教員に講演をしてくれたことがとても良かった。みんな落ち着いた。
★こころのケアは直接住民のところへ行って話してほしい。後ろでふんぞり返って、次の患者というのでは困る。
★精神保健福祉センターに教えてもらい、こころのストレスの早期発見のために、乳幼児健診で母親のアンケートをとった。母のことだけでなく、それが子どもにもかかることが分かった。
★こころのケアを担当する人は経験のある人が担当すべきと思う。あまり若いと話せない。
★健康相談の保健婦や救護班の人と上手くつながってやってほしい。同じことを何度も言わせられるのは辛い。
★被災地はこころのケアとして2,3年は面倒を見てもらいたい人が残る。専門的な支援をしてほしい。事例検討やアドバイスが必要。

 

⑤援助者のへのこころのケアについて

★職員はほとんど寝ていない。2週間風呂も入らず、靴下も替えずにいる。役場が引っ越しをしなければならないことになった。本部は4月3日まで虻田にあったが、その後は豊浦に移った。豊浦に来てからはほとんど電話で怒られることばかり。泣きながら「すいません」と謝った。このままで自分は大丈夫かと思った。
★住民の声は特に女性職員にはこたえた。職員がいたたまれなくなった。夜中にも電話がかかる。何も起こらない日はなかった。
★自分も被災者なので気持ちが分かるからなおのこと辛い。複雑。
★こころのケアを受けるのはみんなで受けるのならいいが、自分1人ならどうかな
★休むことが大切。日中休むこと。
★職員のこころのケアをまずやってほしい

 

⑥災害を体験して何が変わったのだろう

★多くの人は喉元過ぎれば・・で次の年の防災訓練やっても出てこない。前に戻った。
でも、人と人の繋がりは強くなった。「あのときは」と言い合える。共有できる気持ちがあり、信頼感もできたし、今でもあの経験はみんなの中に生きている。仲間としての町の財産だと思う。町内外の人たちに助けてくれと言われると助けたい。やはり変わったんでしょうね。